親戚の叔父さんはお正月に行くとお年玉をくださる有難い存在である。私は両親ともに兄弟が多かったので、いろんな意味で大変お世話になった。お正月は血の絆を確かめ合う良い機会である。
だが、親戚といえどもこじれると骨肉の争いとなることがある。今回は叔父と甥の争いに着目したい。史上最大の争いは大海人皇子と大友皇子の壬申の乱であろう。叔父さんが戦いを仕掛け、甥っ子を自害に追い込んだのである。
話を久しぶりに平将門に戻そう。将門の乱も叔父と甥の戦いであった。将門の叔父は平良正(よしまさ)である。彼の妻は源護(みなもとのまもる)の娘である。
つくば市水守(みもり)に「水守城址」という石碑がある。つくば市立田水山(たみやま)小学校のすぐ北である。昭和26年に校長先生が建てたもののようだ。
将門の乱は承平五年(935)2月の野本合戦から始まる。将門は、源護の子扶(たすく)等が待ち伏せていたのを返り討ちにし、その勢いで自身の伯父国香(くにか)の館を焼き打ちした。国香は死亡し、子の貞盛は京から急ぎ帰郷し喪に服した。国香の妻は源護の娘であった。
この狼藉を許せないのが叔父良正である。良正は当然貞盛にも声を掛けただろうが、貞盛は服喪のため断ったようだ。一方、源護は良正が意気盛んな様子を喜んだ。同年10月に良正は、川曲(かわわ)村(八千代町大字新井・川西地区運動広場のあたり)で将門と戦ったが、敗走することとなる。
収まりのつかない良正は兄の良兼の助力を求める。やはり源護の娘を妻に持つ良兼は「豈(あに)与力の心の無からむ哉」と承諾し、良正は勇気百倍の思いだった。そして、上総国(横芝光町屋形の四社神社)にいた良兼の軍勢が動き出すのである。『将門記』を読んでみよう。
これを聞いて、先の軍(いくさ)に射られし者は、痕を治して向い来る。その戦(たたかい)に逃れし者は、楯を繕いて会い集まる。而る間に介の良兼は、兵を調え陣を張り、承平六年六月廿六日を以て、常陸の国を指して雲の如く涌き、上下の国(上総、下総を云うなり)を出ず。禁遏(きんあつ)を加うと雖も、因縁を問うと称して、逃れ飛ぶが如く、所々の関に就かず。上総の国の武射(むさ)郡の少道より、下総の国の香取郡の神前(かんざき)に到着す。厥(そ)の渡(わたし)より常陸の国の信太郡(しだぐん)江前(えのさき)の津に渡り着き、其の明日の早朝を以て、同国水守(みもり)の営所に着せり。
良兼の加勢を聞いて、良正配下のうち、先日の戦いで射られた者は傷を治してやってきた。逃げおおせた者は楯を修理して集まった。そうしているうちに、上総介良兼は軍を編制し承平六(936)年6月26日、常陸を目指して上総を出立した。親戚を訪ねると称して飛ぶように関所を避けて進み、誰も止めることなどできない。上総国武射郡(横芝光町屋形を含む)の間道から下総国神前(神崎町)に到着した。その渡しから常陸国江前(稲敷市江戸崎)に渡り着き、翌27日早朝に水守営所(つくば市水守)に着いた。
地図上で確認すると、良兼の軍勢が左斜め上に進んだことが分かる。良正軍がこれに合流し、国香の子貞盛も味方に引き入れ、下野国境で将門の軍勢と戦った。しかし、戦上手の将門が勝利し、良兼を下野国府に追い詰めるが、「親戚は疎くとも葦に喩(たと)う、若し終に殺害を致さば、若(すなわ)ち物の譏(そしり)は遠近に在らむか。」と囲みを解くのであった。
以上が将門の乱の初期段階であるが、これに登場するのが水守営所跡(水守城址)である。それほど重要な場面とは言えないが、良正が良兼の合力に勇気凛々とした場所である。その様子を『将門記』は次のように伝えている。
良正は水を得たる竜の心を励まし、李陵の昔の励みを成せり。
匈奴の大軍を相手に善戦した李陵将軍のような勇気を得たという。だが、結果は上記のとおりであった。甥の将門と比較されると凡庸な武将だったのかもしれないが、息子を殺害されて悲しむ舅への義理を重んじる立派な人物だったのかもしれない。
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