今年、静岡各地は徳川家康でずいぶん盛り上がっている。「徳川家康公顕彰四百年記念事業」が実施されているのだ。四百年前に何があったのか。主催者によれば「平成27年(2015年)の徳川家康公薨去四百年という記念の年」だからだという。2015-400=1615。家康が亡くなったのは元和二年(1616)4月17日であり、一年早いようだが。
それは、ちと教養があれば分かること。個人の死去から1年経つと一周忌を執り行うが、三回忌を行うのは死去から2年後である。数え年のように数えるので、五十回忌は満49年で行う。
そうすると400回遠忌は満399年の今年となる。実際に今年、岡崎市の大樹寺では「徳川家康公四百回忌法要」が4月12日に、袋井市の可睡斎(かすいさい)では5月16~17日に「家康公没後四百年法要」が執り行われる。
この記念の年に、浜松市の浜松市博物館で「徳川家康公立体しかみ像」が制作され、2月20日にお披露目があった。等身大で制作費250万円という。まあ制作費はどうでもいい。
原画は徳川美術館蔵の『顰(しかみ)像』、ずいぶんと困っているお顔の家康像である。正確には「徳川家康三方ヶ原戦役画像」という。三方ヶ原の戦いに敗れた家康が自分に対する戒めとして描かせたという特異な図柄である。
浜松市北区根洗町に「三方原古戦塲」の碑がある。塲は場の異体字である。
徳川宗家18代当主恒孝(つねなり)氏の筆である。世が世なら公方様であり、初代家康公の血を引いていらっしゃる方である。揮毫するには最もふさわしい。
三方ヶ原の戦いは徳川家康が武田信玄に敗れた戦いで、家康唯一の敗戦として知られている。副碑にある説明文を読んでみよう。
元亀三年(一五七二年)十二月二十二日、徳川家康は武田信玄の上洛を阻止せんと、武田軍およそ二万五千の兵力に対し徳川軍は、およそ一万一千の兵力を以って戦いを挑み、戦闘約二時間といわれるも、結果は大敗に終った。
これが三方原合戦である。
戦いが展開されたのは、この三方原台地であるがそのところは定かではない。
われわれは、この三方原の一角に、この碑を建て、その歴史の場を永く後世に伝えようとするものである。
昭和五十九年七月吉日
三方原歴史文化保存会有志
この場所で戦いがあった時には、天下はどう転ぶか分かったものではなかった。それは、徳川家康が天下から一番遠ざかった瞬間だった。しかめっ面になって悩み苦しんだ。だが、そのことを忘れなかったことで、天下取りの道が開けていった。失敗に学ぶというのはこういうことなのである。
重厚な歴史の話をした後で蛇足というか、関係ない話を一つ。戦いの行われた三方原(みかたはら)台地は赤土で農耕に適した土地ではなかった。しかし、大正初期からジャガイモの栽培が導入され、現在では「三方原馬鈴薯」として、しずおか食セレクションに認定されている。その男爵から作られる「三方原ポテトチップス」は、浜松地域ブランドやらまいかに認定されている。
蛇足の話をまとめる必要はないが、家康も馬鈴薯も三方原台地で育てられたということだ。
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