死者は数が問題ではない。あたりまえだが、ひとりの命は一つだけなのだ。だから「かけがえのない」という形容をよくする。かけがえのない命が失われると、その人にとって世界は無に帰してしまう。だから、死者が多ければ悲惨だとか少なければどうだとか関係ない。死はひとりで受け入れるものだからである。
それでも事故を語る際に、被害の大きさに死者の数を使わずして他に表現方法があるだろうか。命は本来、数量ではないのだが、ここではあえて指標として扱うこととする。本日は、列車事故のレポートである。
北条鉄道の網引(あびき)駅に「列車転覆事故殉難の地」の説明板がある。この事故は「北条線列車転覆事故」といい、昭和20年3月31日に発生した。当時は国鉄北条線であった。どのような事故なのか。反対側に説明文があるので読んでみよう。
それは一九四五年(昭和二十年)三月三十一日のことだった。静かな田園地帯を揺るがす大惨事が起こったのである。
国鉄加古川線北条支線北条駅を十五時五十分に出発した六一〇列車(天田機関士)が十六時十二分網引駅西方三〇〇米付近に差しかかった。折しも、川西航空機鶉野工場で完成した局地戦闘機「紫電改」(操縦五田栄上飛曹、二十歳)が試験飛行をするために鶉野飛行場を離陸し、飛行場周辺を飛行し南より西北に向って着陸態勢をとり高度を下げエンジンを絞った、その時エンジンが停止した。
法華口駅を五分遅れて出発した列車の目前を飛行機が滑るように降りてきた。そして尾輪が線路を引っ掛けもんどり打って田地に墜落し、線路が一米ばかり北に移動して傾いた。
ここで悲劇が起こった。列車には途中に停車した駅から乗車した人々で満員であった。列車は脱線し、蒸気機関車は百八十度転覆、客車は転覆折損し、死者十二名(乗客十一名と飛行機搭乗員一名)重軽傷者一〇四名を出す惨事となったのである。
救助のため、軍、消防団、地元の人々が活躍した。その日、のどかな春の夜のしじまを破る鎚音が不気味な響きを帯びて鳴り続けたという。夜を徹しての復旧作業が行われたのである。
ここに加西市における戦前戦後を通じた最大の交通事故の顛末と、その惨禍を後世に伝え残し、併せて犠牲者への鎮魂の思いを込め、郷土の歴史にその事実の概要を留めんとするものである。
一般に鉄道事故が発生すると原因究明が行われる。人為的なミスもあれば、自然災害に伴うものもある。運転士に瑕疵がなくとも、整備不良や犯罪も考えられる。
史上最悪の鉄道事故は、インドで1981年に起きたビハール州列車転落事故である。死者は800人とも言われているが、はっきりしていない。事故原因もよく分からないそうだ。
日本では昭和15年の西成線列車脱線火災事故で死者が189名である。原因は分岐器の不正操作によるものだった。当時はガソリンを燃料とする気動車があり、脱線転覆により炎上し大惨事となったものである。
今回レポートしている北条線事故の原因は、航空事故によって鉄道事故が引き起こされたというレアケースである。故障した紫電改がレールさえ引っかけなかったら鉄道事故は防げた。しかし残念ながら、偶然の重なりによって被害が大きくなった。
時期は敗色の濃くなっていく昭和20年である。空中でエンジンが停止してしまった航空機は、零戦の性能を上回り米国戦闘機に対抗できる優秀機、紫電改である。その期待の紫電改が事故を起こし、あまつさえ列車脱線転覆事故の要因になるとは…。国民の士気が低下することを恐れたのか、紫電改の事故は公表されなかった。
加西市網引町の網引駅(北条鉄道)の西方300mが事故現場だという。上に写しているあたりだろう。地元の人々が救助活動に尽力したが、軍の機密で言えないことも多々あったようだ。
今年は戦後70年、首相談話の内容が注目されている。そして事故からもちょうど70年を迎える。この節目に当たる現在、網引駅で事故機関車の動輪が展示されている。
C12形蒸気機関車189号の動輪で、もともと交通科学博物館に保存展示されていたものである。5月末までの予定でゆかりの場所に貸し出されているということだ。
首相談話に「侵略」を入れるかどうかが注目されている。歴史をどのように認識し評価するかは、外交の基本姿勢に関わることなので確かに重要だ。
同時に国内にも目を向け、銃後の守りに就いた国民の生き様も振り返りたいものである。その時代を精一杯生き抜く姿が見えてくるはずだ。
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