貴重なお宝はほとんど、博物館が持っていると思っていた。博物館の所蔵品は確かに文化財級だが、お宝のすべてではないことが分かったのは、『開運!なんでも鑑定団』を見てからだ。
安く売られていたとか借金のかたにもらったとか、何でもないようなものに数百万円の価値があるのだから、庶民にとってはジャンボなドリームである。ただ、お宝と信じていたモノがフェイクだったなんてことも多いから、真実を知ることが幸せかどうかは一考を要する。
四国中央市土居町津根字長津坂の村山神社の境内に「お宝塚」がある。少し高台にあって瀬戸内海を臨むこの神社は、式内社で旧県社の由緒を誇っている。
御祭神は天照皇大神だが、斉明天皇と天智天皇も合祀されている。この場所にVIPなこの母子とは、何か事情がありそうだ。拝殿に面して由緒を刻んだ石碑が建てられている。読んでみよう。
磐瀬の行宮とお宝塚
応神天皇の御代秦氏がこの地に栄え、続いて孝徳天皇の御代阿部小殿小鎌が常の里に派遣され砂金の採集に当った。その後斉明天皇の七年天皇筑紫行幸の途次道後温泉に御入湯後三月二十五日中大兄皇子、大海皇子等を伴い御船を還えして娜の大津磐瀬の行宮に還行され地を長津と改められたと日本書記に誌されており、お宝塚を中心とする村山神社神域が磐瀬の行宮遺蹟と拝察され、またお宝塚は高貴の方の御陵とも伝承されている。
まず、「阿部小殿小鎌」とは何者か。孝徳天皇と同時代のようだが、その時代の歴史を記録した『日本書紀』には見えない。『続日本紀』巻第廿七、称徳天皇の天平神護二年に次のような記述がある。書下して紹介しよう。
三月戊午、伊予の国の人従七位上秦毘登(はたのひと)浄足(きよたり)等十一人に姓(かばね)を阿陪小殿朝臣(あべのおてのあそみ)と賜ふ。浄足自ら言(まを)す。難破長柄(ながら)の朝廷、大山上(だいせんじょう)安倍小殿小鎌(あべのおてのおかま)を伊予の国に遣(つかわし)め、朱砂(すさ)を採らしむ。小鎌便(すなわち)秦首(はたのおびと)が女(むすめ)を娶(めとり)て、子伊予麻呂を生めり。伊予麻呂父祖を尋(つが)ず、偏(ひとへ)に母の姓に依れり。浄足は即ち其の後なり。
天平神護二年(766)3月3日、伊予の秦浄足に「阿陪」姓が与えられた。これは浄足は次のように申し上げたからである。「孝徳天皇は安倍小殿小鎌を伊予に派遣し、水銀の原料や朱色の顔料となる鉱物を採掘させました。小鎌は現地の秦氏の娘と結婚して、伊予麻呂という子をもうけました。伊予麻呂は父の「安倍」姓を継がずに、母の「秦」姓を名のっていたのでございます。私はその子孫でございまして、祖先の姓にお戻しいただきたとうございます。」
小鎌の職階「大山上」とは冠位19階(12階ではない)の11位である。神社境内の石碑には、小鎌は「砂金の採集」をした、とあるが、辰砂(朱砂)の採集が正しい。どちらにしても「お宝」には違いない。お宝塚に埋められているというのか。
次に、斉明天皇七年(661)の「筑紫行幸」とは何か。前年、朝鮮半島の百済が唐と新羅によって滅ぼされた。斉明天皇はこれを、わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合と判断、集団的自衛権を発動し、やむを得ない自衛の措置として必要最小限度の実力を行使することを決定した。
661年1月6日、斉明天皇の船団が筑紫へと向かって難波津から出航する。
1月8日、船が大伯海(おおくのうみ=備前国邑久郡)にさしかかった時、天皇の孫の大田皇女が女児を出産。大伯皇女と名づける。
この続きは『日本書紀』巻第廿六、斉明天皇七年の記述を書下し文で読んでみよう。
庚戌、御船伊予の熟田津の石湯行宮(いはゆのかりみや)に泊る。〔熟田津、此を儞枳拕豆(にきたつ)と云ふ。〕三月丙申朔庚申、御船還りて娜大津(なのおほつ)に至る。磐瀬行宮(いはせのかりみや)に居します。天皇此を改めて、名づけて長津(ながつ)と曰ふ。
1月14日、天皇がお乗りになった船は熟田津の石湯行宮(今の松山市)に着いた。
3月25日、船は改めて娜大津に着いた。磐瀬行宮にお住まいになった。天皇はここを長津と名づけられた。長津と名づけられた場所は、磐瀬行宮という解釈が一般的だが、娜大津とする解釈もある。
この後、天皇は5月9日に朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)に入り、武力行使に向けて準備を進める。ところが、次のようなとんでもない事態が発生する。
秋七月甲午朔丁巳、天皇朝倉宮に崩(かむさ)りましぬ。八月甲子朔、皇太子、天皇の喪(みも)を奉徙(ゐまつ)りて、還りて磐瀬宮に至ります。是の夕に、朝倉山の上に於いて、鬼有りて、大なる笠を着て、喪の儀(よそほひ)を臨視(のぞみみ)る。衆(ひと)皆嗟恠(あやし)む。冬十月癸亥朔己巳、天皇の喪、帰りて海に就く。是に皇太子一所(ひとゝころ)に泊りて、天皇を哀慕(しのび)たてまつりたまふ。乃ち口号(くつうた)して曰く、
枳瀰我梅能(きみがめの) 姑裒之枳舸羅儞(こほしきからに) 婆底々威底(はててゐて) 舸矩野姑悲武謀(かくやこひむも) 枳瀰我梅弘報梨(きみがめをほり)
乙酉、天皇の喪、還りて難波に泊る。十一月壬辰朔戊戌、天皇の喪を以て飛鳥の川原に殯(もがり)す。此より発哀(みねたてまつ)りて九日に至る。
7月24日、天皇が朝倉宮でお亡くなりになった。
8月1日、中大兄皇子は天皇の御遺体を磐瀬宮に移された。この日の夕方、朝倉山の上に鬼が現れて、大きな笠をつけて葬儀の様子を見ていた。人々はみな不安に思った。
10月7日、天皇の御遺体は船に乗せられ帰路に着いた。中大兄皇子はある港で天皇を偲んで歌を詠んだ。
母さん、あなたの眼差しを思い出します。母さんと過ごしたこの場所にいると懐かしくて、もう一度お会いしたいのです。
10月23日、天皇の御遺体が難波津に着いた。
11月7日、飛鳥の川原で葬儀を執り行った。この日から9日まで哀悼の意を表した。
鬼の話とか皇子の歌とか気になる箇所はあるが、ここでは斉明天皇とその御遺体の移動経路のみに着目しよう。
難波津(大阪港) ⇒ 大伯海(岡山県旧邑久郡) ⇒ 熟田津の石湯行宮(愛媛県松山市) ⇒ 娜大津(福岡県博多港) ⇒ 磐瀬行宮(福岡市南区三宅) ⇒ 朝倉橘広庭宮(福岡県朝倉市) ⇒ 磐瀬宮 ⇒ 難波津 ⇒ 飛鳥
地図上でたどれば自然なルートに思える。ところが、疑問が生じるのは「御船還りて娜大津に至る」という箇所である。帰ってきたとは、どういうことか。二度目の入港なのか。
そこで考え出されたのが、「熟田津の石湯行宮」から出向して西へと向かったのではなく、逆走して東へ向かったという解釈である。つまり、帰ったのである。
そして、帰った御船が着いた「大津」こそ、四国中央市土居町津根の地だというのだ。だから、村山神社は「磐瀬行宮」の遺蹟ということになる。これにちなんで、昭和15年に津根村と野田村が合併した際に、新村名は長津村とされた。
ならば、「お宝塚は高貴の方の御陵」という伝承は何か。「皇太子、天皇の喪を奉徙りて、還りて磐瀬宮に至ります」とある。中大兄皇子は天皇の御遺体を捧持して、磐瀬宮へ帰ってきたのである。そこで御遺体を埋葬したとしても不思議なことではない。
つまり、「高貴な方」とは斉明天皇なのである。事実『土居町誌』には、宝塚に関して「被葬者 斉明天皇御陵墓と伝う」との記録が掲載されている。
改めて問おう。村山神社の宝塚は斉明天皇ゆかりの地なのか。宝塚を発掘すれば謎は解明されるだろう。この場合、天皇とは関係ないという結論となるのが私の見立てだ。
しかし私には、科学的に解明することが文化を豊かにすることなのか、という新たな疑問が生じる。宝塚には何が埋まっているのか。高貴の方とゆかりがあるのかないのか。謎は謎のままに考えをめぐらすことは、歴史の楽しみ方の一つである。
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