株式市場で建設業銘柄が上昇している。スーパーゼネコン「鹿島(かじま)建設」は8月に入って年初来高値を更新した。リニア中央新幹線の最難関工事という「南アルプストンネル」や、仕切り直しとなった新国立競技場など、大型プロジェクトの受注に期待が高まっているらしい。
その鹿島建設の中興の祖と呼ばれるのが、鹿島守之助(明治29~昭和50)である。旧姓は「永富」で、建設業者鹿島組に請われて昭和2年に社長家に婿入りし、鹿島姓を名乗り経営者となる。実家は播磨の豪農であった。
たつの市揖保川町新在家に「永富家住宅」がある。国指定重要文化財である。
入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)の重厚な主屋は、文政五年(1822)に完成した。写真のような立派な玄関、そして座敷には上段の間があるが、これは龍野藩の殿さまがしばしば立ち寄ったことによる。永富家は財政面で殿さまを助けていたため、武士並みの待遇を受けていたようだ。
永富家の先祖は伊賀上野あたりの人ともいうが、真偽は定かでない。また、いつ頃から播磨の地に住んだのかもはっきりしない。文献には関ヶ原の戦いの頃から登場するらしい。
鹿島守之助は永富家の四男として生まれ、東京帝大卒業後に外交官となった。鹿島家を継いだのちに外交官を辞め、昭和17年には大政翼賛会調査局長となった。
その頃、守之助は汎アジア主義を主張し、大東亜共栄圏の建設に積極的であった。もちろん守之助には侵略的意図はなく、アジア諸民族の共存共栄を夢見ていたようだ。昭和28年に参議院議員となり、32年に第1次岸内閣の北海道開発庁長官に就任した。
永富家の前にある庭園「秋恵園」に「パン・アジアの碑」がある。昭和48年、守之助が自ら除幕を行った。彼の汎アジア主義は時流に乗ったものではなく、政治信念であり生涯の夢であった。碑には守之助の筆跡で「わが最大の希願はいつの日にかパンアジアの實現を見ることである」と刻まれている。
守之助没後40年となる今日、パン・アジア実現の見通しはどうなのか。日韓、日中関係を想起するだけでも、その道のりは困難であることが分かる。
そもそも、アジアという地域は何なのか。我が国からシベリア、インドネシア、サウジアラビア、イスラエル、そしてトルコまで、この多様性に共通するのは何か。簡単に言えば、ヨーロッパから見て東方の地域ということだ。アジアはヨーロッパから見た呼び名であり、アジアに住む人々が自らの住む地域を「アジア」と呼んではいない。
反欧米を旗印にした戦争の時代なら、大東亜共栄圏構想のように、「アジア」の持つ意義は大きかっただろう。米ソの冷戦時代には、第三勢力として「アジア・アフリカ」の連帯が有意味だった。どちらも対抗勢力としての意味合いが強い。
しかし、グローバリゼーションがこれほどまでに進展した今日、アジアは一つと称して何に対抗するというのか。多様性を束ねる理念はあるのか。そもそも、アジアはまとまらねばならないのか。
それでも、あえて言うが、東アジアには真の意味での大東亜共栄圏を築かねばならない。近頃、我が国のネットやテレビ番組には、近隣諸国へのリスペクトを全く欠いた情報が多いように感じる。首脳同士がギクシャクするのはまだしも、民衆レベルで心が離間して何の益があろうか。
共通の文化圏に属する日中韓三国が歩むべきは、小異を捨てて大同に就き、ともに栄える道である。守之助の唱えたパン・アジアの精神は、そんな未来を目指していたに違いない。
同じく秋恵園に「世阿弥の母の像」がある。ずいぶん唐突な印象を受ける。説明がないので調べてみた。
面白いことに、同じ像が伊賀市守田町の木津川近くの世阿弥公園にある。行ったことはないのだが、昭和50年に建てられ、「観世発祥の顕彰と共に、永富氏遠祖を永く追慕することは意義深いことと思う」との守之助の銘文が添えられているという。
永富氏と世阿弥の観世家とは何か関係があるらしい。伊賀の旧家に伝わった「上島家文書」の情報を整理すると、次のような系図が作成できる。今田哲夫・伊藤ていじ『永富家の人びと』鹿島研究所出版会より
永富家と世阿弥の関係は、「上島家文書」の屋鋪絵図における次の文言を根拠としている。
コノヤシキ元清入道正平十八歳霜月十二日生、母播磨国揖保庄永富左衛門六郎女
元清入道、すなわち世阿弥は正平18年(1363)に播磨国揖保庄の永富氏の娘を母として伊賀に生まれた、という。それゆえ母の像が、生家のある播磨と嫁ぎ先の伊賀の両方に建てられているのだ。
しかも、世阿弥の父、観阿弥は楠木正成の姉か妹の子だともいう。ビッグネームに連なるすセレブな家系だ。系図の内容は確かにすごいが、すごいだけに「出来過ぎ」との評価もある。伊賀ではなく大和出身と考える研究者も多い。
それでも伊賀市は、観阿弥・世阿弥生誕の地とPRしている。たつの市も、世阿弥の母の里と称している。奈良県磯城郡川西町大字結崎の面塚(めんづか)のあたりが世阿弥の生誕地だともいう。
伝説の地がいくつもあるのは、それだけ世阿弥にあやかりたい人が多いということだ。鹿島守之助もその一人なのだろう。
美しく手入れされた永富家住宅と秋恵園。ここで学べることの奥の深さには恐れ入る。単に文化財級の古い建物かと思えば、この家の出身者が鹿島守之助で、思想は汎アジア主義、先祖に世阿弥の母がいるという。小さな旅ながらもスケール感があるのが魅力的だ。
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