もうすぐ、あれから70年の節目の日が来る。安倍首相の談話の内容が気になるところだが、参議院で審議中の安保法制の行方こそ注目しなければならない。我が国の将来のカタチを決める重要な案件であり、歴史の教訓を生かすことができるのかが試されているのだ。
さる6月4日の衆院憲法審査会で、自民党が推薦した長谷部恭男・早稲田大大学院教授ら憲法学者3人が、集団的自衛権の行使容認を含む安全保障関連法案を「憲法違反」と明言した。
その後、与党側から素人呼ばわりされた長谷部氏は、「今の与党の政治家の方々は、参考人が自分にとって都合の良いことを言ったときは専門家であるとし、都合の悪いことを言ったときは素人だという侮蔑の言葉を投げつける」と指摘している。
憲法学者の見解を無視する与党政治家の態度を見て、私は戦前の天皇機関説事件を思い起こした。昭和10年(1935)2月18日、貴族院本会議において菊池武夫男爵が次のように美濃部達吉博士を非難したのである。
学者の学問倒れで、学匪(がくひ)となったものでございます。私は名づけて学匪と申す、支那にも土匪は沢山ございますが、日本の学匪でございます。
学匪とは世に害をなす学者ということだ。美濃部博士の天皇機関説は、ドイツの国家法人説の日本版で、立憲君主制の理論であった。天皇は政治的行為を個人の判断で行うのではなく、国家の代表機関として執行するというものである。
それを自説と相容れないからと言って「学匪」と罵倒したのは、現代にあっては権威ある憲法学者を「素人」と呼ぶのと同じ心性であろう。今こそ美濃部博士の業績を顕彰すべきと考え、博士が生まれた高砂を訪ねた。
高砂市高砂町材木町に「美濃部達吉生家跡」がある。石碑が残るのみである。
このあたりは材木の集散地として古くから栄えた商業の町である。ここに生まれた博士の生涯が説明板に記されている。読んでみよう。
明治憲法下で、「天皇機関説」を唱えた憲法学者美濃部達吉博士は、明治6年(1873)5月7日、父秀芳(蘭方医、申義堂教授、第2代高砂町長)、母悦の次男として、ここ材木町の地で生まれた。達吉博士は、高砂小学校、小野中学校を経て兄俊吉とともに上京、東京帝国大学法科大学を卒業し、同大学教授を務めた。その間、東大における美濃部憲法学は、幾多の著名な憲法学者、行政法学者を輩出した。昭和23年(1948)、東京で他界したが、生前の著書等は、息子の亮吉氏(元東京都知事、参議院議員)の蔵書とともに「美濃部親子文庫」に保存されている。
高砂みなとまちづくり構想推進協議会
高砂公民館の「美濃部親子文庫」の前には博士のレリーフがある。
達吉博士はお兄さんの俊吉と同じく、東京帝国大学に進んでいる。こんな秀才兄弟は、どのような家に生まれたのだろうか。お父さんは秀芳(しゅうほう)といい、申義堂(しんぎどう)という学問所の先生をしていた。
これが「申義堂」である。高砂市高砂町横町にある。平成23年に建造物として市から文化財に指定されている。
真新しい感じがするが、なぜ文化財なのか。明治4年に廃校になった後に平成になるまで加古川市(神吉町西井ノ口)にあった。それが近年になって移築復元され、文化財にも指定されたというわけだ。ただし、実際に学問所があったのは現在地ではない。
高砂市高砂町北本町の高砂地区コミュニティセンター前に「申義堂跡地」の標柱がある。
申義堂はどのような学問所だったのか。読んでみよう。
申義堂は、江戸時代(文化年間[1804-1818]頃)に、姫路藩の家老河合寸翁の建議によって庶民教育を行うために設立した学問所で、高砂町北本町(現高砂地区コミュニティーセンター)に建てられました。申義堂での教育は、朱子学が中心で素読、会読、輪読を行い、教授陣には、地元高砂の学者である菅野松瑦(すがのしょうう)や美濃部秀芳(みのべしゅうほう)などがおり、姫路藩郷学として庶民教育がなされました。 申義堂の土地・建物は、姫路藩六人衆、高砂の大年寄である岸本吉兵衛が提供しました。
この学問所は官民の協力により設立された、町民の子弟ための郷学であった。四書五経を中心とした儒学が教えられていた。この時代の標準的な学習内容である。達吉博士のお父さんは、ここで先生をしていたわけだが、博士が生まれたのは申義堂が廃止された後のことだ。
高砂市高砂町横町の十輪寺に「美濃部秀芳先生墓」がある。
真ん中の傷んでいるのが父秀芳の墓、左は母悦の墓、右は祖父秀軒夫妻の墓である。秀芳が亡くなったのは明治37年(1904)であり、長男俊吉は父とその家族のことを墓誌として墓石に刻んだ。今は剥落しているが、次男達吉については「次達吉法科大学教授法学博士」と記されていたという。
法科大学とは東京帝大を構成していた分科大学の一つであった。後の法学部である。達吉博士は大正13年(1924)には法科部長に就任している。明治45年にはすでに『憲法講話』で天皇機関説を唱え、大正デモクラシーのオピニオンリーダーとして知られていた。
天皇機関説は、政党政治の理論的根拠として大日本帝国憲法の常識的な解釈とされ、昭和天皇のお気持ちにも沿うものであった。
にもかかわらず、昭和10年に至り、南朝忠臣のご子孫が疑義を呈したことから軍部や右翼の攻撃にさらされ、博士は9月18日に貴族院議員の辞職に追い込まれることとなる。
すべての歴史は後世に生きる者の評価を受ける。「国体」に反するとして天皇機関説を葬り去った結果が、軍部の独走を加速させたのである。憲法解釈を変更した結果が戦争への道を開いたのである。日本の破局は事件から10年後であった。天皇機関説の放棄は明らかな誤りと言える。
ならば、今の安保法制に伴う憲法解釈の変更はどうなのか。未来の人々に対する責任ある政治なのか。もうすぐ戦後70年の終戦記念日を迎える。戦争の惨禍を語り継いでいくとともに、我が国はどのようにして戦争への道を歩み始めたのかを振り返る機会としたい。天皇機関説事件から80年の節目なのだから。
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