この夏一番のおすすめの酒は、「七本槍純米14度原酒」という夏向きの逸品である。原酒でありながら14度、すーっと呑んだ後に「七本槍」らしい余韻が感じられる。これを造る冨田酒造は、天文年間の創業というから、我が国有数の古い酒蔵だ。長浜市木之本町木之本にある。
七本槍は羽柴秀吉が柴田勝家を破った賤ヶ岳の戦いで活躍した7人の武将のことで、賤ヶ岳は冨田酒造の近くにある。長い歴史のある蔵の、地元の史跡ゆかりの銘柄なのだ。そう聞くだけで、一段と旨味が感じられる。
7人のうち最も有名なのは加藤清正だろう。後に肥後熊本城主となった。その次は福島正則で、安芸広島城主となった。三番目は加藤嘉明で伊予松山城主、会津若松城主である。次は片桐且元で、淀君・秀頼と家康との仲介に腐心した。大河ドラマ『真田丸』でも登場するだろう。失礼ながら私が全く知らないのは、平野長泰と糟屋武則である。それほど大きな領地をもたなかったようだ。
そして残る一人が、脇坂安治(わきさかやすはる)、初代の伊予大洲城主である。日本の誰もが知る武将とまでは言えないが、英雄・李舜臣(イスンシン)のライバルとして韓国ドラマに出演しているそうだ。安治が大洲に移る前に本拠としていた淡路洲本では、「洲本城脇坂安治400年祭」というイベントが平成21年(2009)に開催された。
このイベントは、脇坂安治が洲本から大洲へ移封された慶長14年(1609)から400年を記念して行われた。当時の画像を検索すると、脇坂氏の「輪違い」紋が幟(のぼり)や鉢巻に描かれ、安治の栄光を偲ぶ一大イベントだったことが分かる。
脇坂家三代目の安政のとき、信濃飯田から播磨龍野へ移封となり、子孫相継いで幕末に至った。この龍野では毎年春に「龍野さくら祭」が開かれている。今年は第63回で、4月5日(日)には「龍野武者行列」があった。ここでも、たくさんの「輪違い」紋を目にすることができる。
そして、このお寺の瓦も「輪違い」紋だらけだ。
たつの市揖保川町正條(いぼがわちょうしょうじょう)の浄栄寺の山門は「旧龍野城すかし門」である。龍野城だけに脇坂氏ゆかりの「輪違い」紋なのだ。
龍野城の遺構については、「山門となった城門」で以前に記している。このすかし門については、標柱に次のように記してある。
明治七年(一八七四)に移築された龍野城の旧門で、一名すかし門といい、閉門時にも城に近づく者を監視することができた。
さらに、揖保川町文化顕彰会の説明板には、次のように記されている。
この門は元竜野城の大手門だったもので明治初年廃藩置県の際城主脇坂安斐守がありのままを寄附されたもので瓦の紋の「輪違い」は脇坂家の紋です。見張り番の居た二階造りの部屋がついていることと造り方が釘を使わず組立ててある総欅造りが特徴です。
脇坂安斐(やすあや)は龍野藩最後の藩主である。安斐守と官位のように表記するのは誤りである。そして、大手門だったというのもいぶかしい。後でもう一つの大手門を紹介する。
浄栄寺の東門である。これも龍野城の遺構ということだ。瓦はもちろん「輪違い」紋である。
たつの市揖保川町野田に市指定文化財の「因念寺山門」がある。これも龍野城の遺構である。
標柱の説明を読んでみよう。
一八七九年(明治十二)八月に、龍野城の大手門を移築したもの。鬼瓦などに藩主脇坂侯の家紋「輪違い」が入っている。龍野城の遺構をいまに伝える建築物である。
こちらこそ旧大手門だろう。屋根にはやはり「輪違い」紋である。
七本槍の7人の武将やその子孫のうち、ある家は大大名となりながら改易となり、ある家は世に出ることはなかった。結局、近世大名として生き抜いて幕末を迎えた家のうち、最も石高の大きかったのは、脇坂氏の龍野藩5万3千石である。
そう考えると、脇坂氏の「輪違い」紋と冨田酒造の「七本槍」マークは、形は違えど、ともに賤ヶ岳の戦いを今に伝える誇り高きデザインに見えてくる。デザインそれ自体の美しさに、歴史の歳月が磨きをかけているのである。
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