「将軍犬死」
天下の将軍がこのような最期を迎えようとは。あきれとも驚きともつかぬ言葉で、室町幕府第6代の足利義教の死は語られた。伏見宮貞成親王『看聞日記』嘉吉元年六月二十五日条である。
自業自得果無力事歟、将軍如此犬死、古来不聞其例事也
自業自得の果て、無力の事か。将軍かくの如き犬死、古来その例を聞かざる事なり。
事件のあった嘉吉元年(1441)6月24日、将軍義教は播磨の守護大名、赤松満祐の京屋敷に招かれていた。結城合戦の勝利を祝し、盛大な酒宴が催され、猿楽能が演じられた。宴たけなわとなった頃、ただならぬ物音が起きた。
「何事か」将軍は不審に思ったが、隣席の公家は「雷鳴でございましょう」と気のない返事だった。その直後である。武者数人が乱入し、将軍の頚を刎ねたのは。一瞬の出来事だったという。
将軍義教は権力基盤強化のため有力者の粛清を次々と行い、その有様は「万人恐怖」と評された。赤松満祐も例外ではなく、永享十二年(1440)には侍所別当の役職を罷免されていた。身に迫る危険に耐えかねた満祐は、やられる前にやってやる、とばかりに凶行に及んだのである。
事件を伝え聞いた貞成親王は、恐怖政治を行った将軍の死を「自業自得」だとつきはなしている。
満祐は屋敷を焼いて領国播磨へ戻り、坂本城を拠点とした。足利一族の義尊(よしたか)を新将軍に立てたものの、大名は参集しない。やがて幕府が態勢を立て直して、山名氏を中心に大軍で攻め寄せてきた。満祐はこれを城山(きのやま)城で迎え撃ったが、力尽きて一族とともに自害した。9月10日のことである。
これを嘉吉の乱という。
たつの市揖西町(いっさいちょう)中垣内(なかがいち)の恩徳寺で、「さいれん坊主」という行事が、毎年8月15日に行われている。前日の14日は井関三神社で行われる。
「サイレンボウズ」と聞けば、妖怪のたぐいだと思うだろう。坊主頭で「ウォーン、ウォーン」とサイレンのように唸る化け物だと。
ちがう。竹竿の先に坊主頭のような提灯があり、中にローソクが灯される。これを持ってお寺の境内を練り歩くのだ。「サイレン」とは祭礼のことなのだ。見た目には独特な雰囲気に感じるが、精霊をなぐさめ供養するお盆の行事である。八瀬久『嘉吉の乱始末記』(SSP出版)に次のように記されている。
中垣内には井関三神社と恩徳寺があるが、この両寺社にはお盆の行事として、「サイレンボウズ」とよばれる奇祭が今に伝わっており、龍野市の無形文化財となっている。
藩政時代に龍野脇坂藩庁への遠慮から、表向きは五穀豊穣祈願の祭りとされるが、実は且って善政を施した赤松氏時代を偲び、嘉吉の乱で死んで行った将士の鎮魂供養の祭りであるらしい。
竹の竿先を割って提灯のように和紙を張り廻らせて、中にローソクを灯し、その竿を肩に担いで、お宮やお寺の境内を練り歩くと言う壮観な踊りである。
中垣内さいれん坊主保存会は、平成26年度に兵庫県芸術文化協会から「ふるさと文化賞」を授与された。伝統行事を地域の方が守り育てていることが高く評価されたのだ。
中世に起きた下剋上。赤松氏のクーデターは、結果的に成就しなかった。悔しさを抱きつつ多くの者が死んだことだろう。彼らへの鎮魂が、数百年を経ても、地元で行われている。犬死した将軍の霊も、悲憤の涙を流した赤松の霊も、恩讐を越えて成仏しているに違いない。
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