東京五輪は競技場とエンブレムで迷走しているが、リオ五輪に向けては熱い戦いが始まっている。勝ち抜くためには精神力が大切だ。そんな五輪出場の心構えを記したのが、宮本武蔵『五輪書』である。冗談だと思うだろう。
リオ五輪を目指すサッカーU-22日本代表候補が先月25日に、京都の妙心寺退蔵院で座禅を行ったそうだ。退蔵院は水墨画の傑作『瓢鮎図(ひょうねんず)』を所蔵していることで知られる。ひょうたんでナマズを捕まえる。困難を乗り越えようとする若者の修業にふさわしい場所だ。
法話を行った副住職は選手らに、心を鍛えるため『五輪書』を読めと勧めた。シャレで言ったのではなく、退蔵院で宮本武蔵が修業したという所縁があるからだ。選手の一人、FWの鈴木武蔵も「読んでみたい」とスポーツ紙にコメントしている。
たつの市龍野町下川原の龍野御坊(たつのごぼう)圓光寺(えんこうじ)に「宮本武蔵修練之地」の碑がある。揮毫は龍野藩主家15代目で元子爵の脇坂研之氏である。
播磨各地に足跡を残す宮本武蔵。このブログでも、出生地の謎解きをはじめ、幾度か話題にしている。興味があれば右上の検索窓で「宮本武蔵」と検索してほしい。
では、武蔵がここ圓光寺で修業したのはいつのことだろうか。お寺でいただいたリーフレットに武蔵の略年譜がある。関係部分を抜粋しよう。
慶長2年(1597) 14歳 圓光寺を訪れ約2年修行する。
慶長5年(1600) 17歳 関ヶ原合戦に出陣する。
慶長6年(1601) 18歳 圓光寺へ帰り、自分の兵法を圓明流と名付ける。
慶長9年(1604) 21歳 京都にて吉岡一門と試合して勝つ。
慶長10年(1605) 22歳 圓光寺へ帰った武蔵は、兵道鏡全文28条を纏め、圓明流を二天一流に改める。
慶長12年(1607) 24歳 武者修行に出る。
慶長17年(1612) 29歳 4月13日、関門海峡にある舟島で佐々木小次郎と試合して勝つ。
元和3年(1617) 34歳 東軍流の三宅軍兵衛と龍野城下で試合し勝ったとされる。
元和5年(1619) 36歳 この頃、龍野藩内の圓光寺で武芸を指南し、多田頼祐(半三郎)に圓明流の免許を与えたとされる。
この年譜は明快に記されているが、実のところ武蔵の生涯には謎が多い。佐々木小次郎との巌流島の決闘は、年譜では慶長17年4月13日とあるが、これは安永5年(1776)成立の『二天記』を根拠としている。果たして正確かどうか。
冒頭でふれたように、武蔵は京都妙心寺でも修行している。愚堂東寔(ぐどうとうしょく)という高僧のもとに参禅していたのだ。愚堂が妙心寺の住持となったのは慶長17年(1612)、寛永5年(1628)、寛永20年(1643)の三度である。武蔵が参禅したのは慶長17年の頃だろう。
年譜によると、武蔵は14歳から播磨龍野の圓光寺で修行しており、彼の心技体の基礎は圓光寺で培われたといっても過言ではない。確実な史料による裏付けがあるわけではないが、圓明流が龍野藩で栄えたことは確かだから、何らかのつながりがあるのだろう。脇坂元子爵が碑銘を揮毫したのもそういうことだ。
U-22日本代表候補が勧められた『五輪書』水之巻には、次のような一節がある。
兵法の道におゐて、心の持やうは常の心に替る事なかれ。常にも兵法の時にも少もかはらずして、心を広く直にして、きつくひつぱらず少もたるまず、心のかたよらぬやうに心をまん中におきて、心を静にゆるがせて、其ゆるぎのせつなもゆるぎやまぬやうに、能々吟味すべし。
試合における心の持ち方は、普段と変わってはならない。普段であれ試合であれ少しも変わらず、心を広くまっすぐにして、極度に緊張するのでも弛緩するのでもなく、心が偏らぬように真ん中に据えるのだ。心を静かに揺り動かし、一瞬たりとも揺るぎやまぬように、よくよく心せよ。
おそらく、退蔵院の副住職のお話は、心を失い周囲が見えなくなることへの戒めだったのではないか。単に無心になっているのではなく、ニュートラルからドライブへの移行が速やかにできるようにしておくことが大切なのだ。
そう考えると、『五輪書』はオリンピックを目指す選手のメンタルトレーニングに適している内容だ。いや、東京五輪成功の指南書として、大会組織委員会の皆様にお読みいただいたほうがよいかもしれない。
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