「しこちゅう~」という四国中央市のキャラクターがいる。ねずみが水引の名札にティッシュ箱のかばんをかけた、幼稚園児のようなスタイルである。特産品をしっかりPRしているが、見た目にインパクトがあるわけではない。
それより「しこちゅう~」という名前のほうが気になる。自己チューでもなければ、色は似てるが、もちろんピカチュウでもない。四国中央市の進化系ではなく短縮形である。
この市は正確には、四国の中央ではない。ただし、四国を自然地理ではなく人文地理的に瀬戸内沿岸の東西軸で捉えるならば、中央に位置するのは確かだ。
面積は広いが大部分が山地で、人口が集中するのは瀬戸内海沿岸である。そこが、伊予と讃岐を結ぶ東西交通の要路であることは、今も昔も変わらない。
今日は、この地の支配階級だった豪族のお墓を紹介する。
四国中央市土居町津根に「丸藪古墳」がある。市指定史跡である。
外からの見た目は大したことはないが、がんばってカメラを突っ込んで写すと、立派な羨道(せんどう)と玄室(げんしつ)を見ることができる。
この古墳は山地の手前の高台にあり、瀬戸内海を望むことができる。古墳の後ろの山際には松山自動車道、坂を少し下ると近世の讃岐街道があり、もう少し下ると国道11号が通過する。
さらに進むと予讃線があるので、先述したように交通の要路であることがわかる。古代の南海道も、おそらく古墳の近くを通過していたはずだ。もちろん、向こうに見える瀬戸内海は物流の大動脈であった。
もう少し詳しいことが知りたくなったので、『土居町誌』で調べてみることとしよう。
森の上・東森にあって、横穴式古墳として土居町最大のものである。津根郷最有力者のものと思われ、年代も他の古墳より古い形式である。少し封土の盛土がくずされ、南壁が崩れかけているのが惜しい。
おっと、これだけかよ。大きさも年代も記されていない。ただ「津根」の最有力者であることが分かる。
「津」だから港があったのだろう。丸藪古墳の主は、水陸両方において物流マネジメントに力を発揮していたのかもしれない。副葬品も何もないので、古墳の位置だけを根拠とした勝手な想像である。
この夏に大阪府立近つ飛鳥博物館で「馬がやってきたころ-古墳時代の文明開化-」という企画展があった。古墳時代はイノベーションの時代で、渡来人が伝えた新技術が社会の変革をもたらした。機動力を高めた馬、深耕を可能とした鉄器、割れにくい須恵器、食生活を豊かにしたカマド。まさに「文明開化」であった。
技術は物とともに移動する。丸藪古墳の主もイノベーションを目の当たりにしていたのだろう。もしかしたら副葬品として馬具が納められていたかもしれない。金メッキとかけっこう質のいい馬具だから、抜け目ない盗人が持って行った。そんなことを想像している。
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