日本の子どもたちに最も知られている外国人の一人がザビエルである。1549年に来日したので「いごよく伝わるキリスト教」と憶える。どこかの小学校で18782+18782=37564の語呂合わせが大きな問題となったが、キリスト教伝来の年は記憶に値する。
ザビエル来日以来、我が国のキリスト教信者は急速に増加し、宣教師追放を経て鎖国へと、政治が動いてゆく。歴史の新たな潮流となったのである。「いごよく伝わる」の語呂合わせには実に意味がある。
堺市堺区櫛屋町西1丁に戎(えびす)公園、通称「ザビエル公園」がある。園内に「聖フランシスコ・ザヴィエル芳躅(ほうちょく)碑」がある。芳躅とは聞き慣れないが、つまりはザビエルの顕彰碑である。
芳躅碑は1949年(昭和24)に、ザビエル来日400周年を記念して建てられた。450周年の1999年(平成11)には、鹿児島のザビエル公園にザビエルと従者ヤジロウ、ベルナルドの像が建てられた。
そして、生誕500年の2006年(平成18)には、時の教皇ベネディクト16世が次のように述べた。4月5日、サンピエトロ広場における一般謁見でのことである。(訳:カトリック中央協議会)
来る4月7日にフランシスコ・ザビエル生誕500年を記念します。この偉大なイエズス会宣教者は、アジアの地で福音を宣べ伝え、キリストに向けて多くの扉を開きました。
確かにその通り、日本にとっては、西洋への扉が開かれたのである。芳躅碑には次のように書かれている。
天文十九年十二月
聖ザヴィエル堺に上陸し、日比屋了慶の館に入った。是れ西洋文明伝来の始で近世日本文化は茲に花と匂った。
On a certain day in 1550A.D. Saint Francis Xavier landed here at Sakai and became a guest in the mansion of Ryokei Hibiya.From this memorable day dates the advent of the Occidental civilization in Japan,which added much to the fragrance of the modern culture of Japan and her people.
碑文の日本語と英語は、ほぼ同じ意味である。「近世日本文化」が花と匂う、と詩的に表現している。「近世」をいつからとするかは、その人の歴史観による。政治的には室町幕府の滅亡を区切りとするが、文化史としてはザビエル来日が画期となったと見なしてよい。
1549年8月15日に鹿児島に上陸したザビエルは、薩摩領内にしばらく滞在した後、翌年夏に肥前平戸に入り、秋には周防山口へと移った。そして、天皇や将軍から布教許可を得るため、12月17日に上洛の途に就いた。
山口から岩国まで歩き、ここから瀬戸内海を船で進んだ。途中寄港した港で、ある有力者が堺の豪商・日比屋了慶(了珪)を紹介してくれた。堺に着いたザビエルは了慶の館に入った。瓦葺三階建のある大邸宅が、この公園のあたりにあったという。
了慶は京の豪商・小西隆佐と連絡をとって、ザビエルに上洛の便宜を図った。1551年1月のことである。京には11日間滞在したが目的を果たせず、また堺に戻ってきた。しばらく了慶の家に滞在して、3月に平戸、そして山口に戻った。その後、豊後府内へ移り、11月に種子島を経由してインドに向かった。
ザビエルが堺に滞在したのは2か月ほどだろう。それでも、堺の商人と出会ったことには大きな意味がある。西国-堺-京というザビエルの旅行に、商人のネットワークが活かされたのだから。
安全を保証してくれる統一的な権力のなかった日本の中で、旅をして布教を行う。それが、どれほど困難であったことか。京で布教許可を得ることはできなかったが、無事に旅して信者も獲得している。ザビエルの知恵と勇気と高潔な人柄の賜物だろう。
そして今もザビエルは社会貢献活動に精を出している。この日は堺東駅前広場で、望遠鏡で捨てられたタバコを見つけ、Não jogar pontas de cigarro! (タバコの吸殻を捨てないで!)と、ポルトガル語で呼びかけていた。
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