南蛮は元来、差別語である。「蛮」の一字に、相手を蔑む意が凝縮されている。
差別的な意味合いの対極に、「チキン南蛮」がある。私はこれが大好きで、宮崎で飲んだ時には、極上のつまみとなった。その美味さは、チキンというよりも手作りのタルタルソースにある。だが、両者を一度に口に入れないと味は完成しない。組み合わせの妙というヤツだ。
それにしても、なぜ「南蛮」なのか。アジの南蛮漬けとか、カレー南蛮という料理もある。何が共通しているのか、さっぱり分からない。とりあえず、料理名が蔑称でないことは確かだ。
さて、情熱の歌人、与謝野晶子が「南蛮」を詠っているという。どのような意図なのか。歌碑を訪ねた。
堺市堺区大仙中町の堺市立中央図書館前に「与謝野晶子歌碑」がある。彼女は堺の出身で、市内に歌碑が20以上ある。全国的には恋の歌や反戦詩が有名だが、地元を題材とした歌も多い。
この歌碑について、堺市教育委員会『平成26年度図書館概要』に解説文が掲載されている。読んでみよう。
中央図書館の前にあるこの歌碑は、与謝野晶子生誕100年を祝し、1978年(昭和53年)に建立されました。碑は赤煉瓦でつくられ、明治時代をイメージしたものになっています。堺美術協会会員で彫刻家の白石正義によってデザインされ、書家の辻川穆堂の字が刻まれました。
「堺の津南蛮船の行き交へば春秋いかに入りまじりけむ」
この歌は、1930年(昭和5年)『堺市史』の完成によせ、それを祝って晶子が東京から電報で堺市に贈ったものです。晶子の堺によせた想いが伝わってくるようです。
与謝野晶子は明治11年(1878)12月7日に、現在の堺市堺区甲斐町西1丁に和菓子屋の娘として生まれた。旧姓は鳳(ほう)、本名は志よう(しょう)である。
晶子が完成を祝ったという『堺市史』については、堺市立図書館のホームページに、次のように紹介されている。
昭和5年(1930)に刊行された『堺市史』は、『大阪市史』や『長崎市史』とならんで日本三大市史の一つとして学術的に高く評価されています。
なるほど、世に日本三大何とかは色々あれど、「日本三大市史」は初めて聞いた。与謝野晶子が祝電を打つほどの大事業だったのだろう。その電報に打たれていた「堺の津…」の歌意を考えてみよう。
堺の港、そこはかつて南蛮船が出入りするほど栄えていました。あれから多くの歳月を重ねました。どのような歴史が紡がれたことでしょうか。
市史の完成を祝う歌なのだ。堺市らしさを誰もが感じるシンボリックな題材を歴史の中に求め、時の流れを感じさせる歌にしたい。晶子はそう思ったに違いない。
堺市のマンホールの蓋に「南蛮船」が、明治になって建てられた「旧堺燈台」とともに描かれている。晶子の歌の心象風景と言ってよいだろう。
この南蛮船に乗って、ポルトガル人やスペイン人がやってきた。彼らは南方から来航したので南蛮人。我が国の人々はそう呼んだ。しかし、そこに蔑視はなく、むしろ好奇と憧憬の眼差しがあった。
おそらく、この時代からだろう。「南蛮」の語意にエキゾチズムが加わったのは。そして南蛮人が来なくなってからは、どこかノスタルジックな響きとして聞こえるようになったのだ。
そして今、「南蛮」はさらに多義的となり、料理にまで広がった。中華思想を発祥とする「南蛮」の悠久の旅が続いている。
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