日本史上有名なイケメンといえば誰だろう?土方歳三だろうか。松平容保だろうか。容保は京都守護職として宮中に参内すると、女官がそわそわしたと伝えられるくらいだから、確かにそうだったのだろう。
今日はイケメンというのも畏れ多いが、天皇の紹介である。セレブでイケメンで、おまけに統治能力バツグンという。その天皇とは、このお方だ。
堺市堺区北三国ヶ丘町2丁に「反正天皇陵」がある。上の写真は堺市役所21階展望ロビーから撮っている。都会の中の貴重な緑地帯だ。ただ、前方後円墳なので、やはり航空写真で見るほうが迫力がある。
考古学的には「田出井山(たでいやま)古墳」という。全長148mで、大きいように見えるが全国的には上位でない。5世紀後半の築造と推定されている。正式な名称は百舌鳥耳原北陵(もずのみみはらのきたのみささぎ)という。
反正天皇は第18代天皇である。正直まったく存じ上げないので、まずは『日本書紀』巻第十二を読むこととしよう。
瑞歯別天皇(みずはわけのすめらみこと)は去来穂別天皇(いざほわけのすめらみこと)の同母弟(おなじはらのいろと)なり。去来穂別天皇二年に立ちて皇太子と為りたまふ。天皇初め淡路宮に生れます。生れまして歯一骨(みはひとつのほね)の如し。容姿美麗(みかたちうるは)し。是に井有り、瑞井(みづのゐ)と曰ふ。則ち汲みて太子に洗(あむ)しまつる。時に多遅(たちひ)の花落ちて井の中に有り。因りて太子の名(みな)と為す。多遅の花は今の虎杖(いたどり)の花なり。故(か)れ称(たた)へまうして多遅比瑞歯別(たじひのみずはわけ)天皇と謂ふ。
反正天皇は履中天皇の同母弟である。履中2年に皇太子に立てられた。淡路島で生まれ、生まれながらに歯並びがとてもきれいで、容姿端麗であった。そこには瑞井という井戸があり、その水を産湯に使ったのである。ちょうどその時、多遅の花が落ちてきて水に浮かんだ。これが天皇名の由来である。多遅は今のイタドリのことである。こういうわけで、多遅比瑞歯別天皇と申し上げるようになった。
ミズハワケくんは、あの巨大古墳の仁徳天皇の三男である。仁徳天皇の次は長男のイザホワケくんが皇位を継承した。履中天皇である。
履中天皇は弟のミズハワケを皇太子にした。当時、天皇に子供がいなかったのか、幼すぎたのか。あるいは、イザホワケの命をねらった次男をミズハワケが倒したことに感謝したからか。いずれにしても、兄弟間の皇位継承は日本史上初めてであった。
反正天皇が生まれたという淡路宮は、今の南あわじ市松帆擽田(まつほいちだ)にある産宮(うぶみや)神社だと伝わる。境内には瑞井もある。この井戸にイタドリの花が落ちたことが天皇名の由来となった。白い小さな花びらが水面に散り敷いたのだろうか。
さて、本日注目したいのはミズハワケの「容姿美麗」である。歯が一つの骨のようだったというが、マンガでも歯を一本ずつ描かないことがある。きれいな歯並びのイメージだろう。
子供時代に容姿端麗だったからといって、将来にわたってそうとは限らない。『日本書紀』と並び称される『古事記』の書きぶりも確認してみよう。
此の天皇(すめらみこと)御身(みみ)の長(たけ)九尺二寸半(ここのさかまりふたきいつきだ)、御歯(みは)長さ一寸(ひとき)広さ二分(ふたきだ)、上下(かみしも)等しく斉(ととの)ひて、既に珠(たま)を貫(ぬ)けるが如くなりき。
「珠を貫けるが如く」というから、キラリンとした美しい歯の持ち主だったのだろう。天皇となっても笑顔からこぼれる歯の印象的なイケメンだったのだ。しかし、気になるのが身長と歯の大きさだ。
1尺は、時と場所によって長さが異なるが、およそ30cmとしておこう。すると身長が2m77cmくらい、歯は長さ3cm、広さ6mmとなって、訳が分からない。それほど偉大だったということか。
その反正天皇は、どのような政治をしたのか。『日本書紀』に戻って、治績を確認しておこう。
風雨時に順ひて五穀成熟(みの)り、人民富饒(にぎは)ひて天下太平なり。
これだけである。父の仁徳天皇とは違って、具体的なことが何もない。それでも、平和だったことは確かだろう。むしろ、それが一番だ。
史料を中国に求めるなら、もう少し詳しいことが分かる。『宋書』倭国伝に登場する倭の五王のうち、倭王珍は反正天皇に比定されている。
讚死、弟珍立、遣使貢献。自称使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王。表求除正、詔除安東将軍倭国王。珍又求除正倭隋等十三人、平西征虜冠軍輔国将軍号、詔並聴。
倭王讃が死んで、弟の珍が即位して、使節を送って貢物を献じた。みずから使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭国王を名乗っていた。正式な任命を求めてきたので、安東将軍・倭国王に任じた。倭王珍はまた、倭隋ら13人に平西・征虜・冠軍・輔国の将軍号を求めたので、これは聞き届けてやった。
倭王珍、すなわち反正天皇の遣使は438年のことだ。中国に対しては、誇大な称号を吹っ掛けておいて、安東将軍と倭国王の称号という実益を得た。なかなか、したたかな戦略である。
こうしてみると、国内を平和に治め、外国とはつきあい上手、しかも歯がキラリンのイケメン。反正天皇おそるべし、完璧すぎです。
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