平成の大合併からしばらくになる。市町村の数はずいぶんと減った。減った数は1500くらいだそうだ。私の住む自治体も周辺の4町を編入した。
合併が推進されている時にはメリットが強調され、夢のような将来像が描かれていたが、本当にそうなったのか。冷静に検証し評価する必要がありはしないだろうか。
エビデンスなしの個人的な印象で私が評価するなら、メリットとしては行財政の効率化、これに尽きるだろう。国からの交付金で成り立っていた町村が多かったから、地域の活性化を謳いながら、実は台所事情で合併に踏み切った自治体は多いと思う。
デメリットもある。住民自治が失われ活力が低下していること。自分の都合で言えば、地図を見ても広すぎて、どこが中心部なのか見当がつかないこと。歴史的な地名が失われ、雰囲気だけの都市名が誕生したこと。
堺市堺区西湊町1丁の船待神社の境内に「湊町堺市合併記念」と刻まれた碑がある。この合併は古い話で、大正9年(1920)のことである。
「公爵近衛文麿書」とあるから、日中戦争を長期化させ戦後に戦犯指名される近衛首相が揮毫したことが分かる。湊町が堺市と合併する前年の大正8年に、近衛文麿はパリ講和会議に西園寺公望全権の随員として出席している。この頃は、将来を嘱望される若手貴族院議員であった。碑への揮毫は、文麿と親交のあった堺市出身の政治家、山口義一からの依頼だったことが想像される。
裏面には、編入されて消滅する湊町の略史が漢文で次のように記されている。
湊町昔時為和泉国大鳥郡塩穴郷之一部世伝上古
此地以為天穂日命之所領置其子孫之土師部云村
街拠東方高地沿旧小栗街道連堺南荘之西南西有
小埠頭益澄川注之流沙年年堆積為沙地村民徙居
遂為小漁村今東湊西湊出島是也後世至徳川氏属
大阪西町奉行後属堺町奉行明治初年属堺県同十
四年属大阪府同二十二年四月町村制施行合東西
湊及出島為一村至大正四年十月布町制改称湊町
同九年四月併合于堺市此地有紀州小栗二街道以
経堺市至大阪為要地和泉河内地方産出綿花輻輳
巨商立軒明治十年及外国綿花輸入商勢稍衰然商
街逐年発達人口亦垂一万五千頃者主事者嘱余記
之余乃案旧記略敘湊町之沿革如此云爾
大正十五年十月建之 藤田守撰
少々難解だが、思い切って意訳してみよう。撰文の藤田守は、大阪府立堺中学校(今の三国丘高校)の先生である。
湊町はかつて和泉国大鳥郡塩穴郷であった。伝えられるところによれば、この地は神代、天穂日命(あめのほひのみこと)の土地で、その子孫である土師部(はじべ)が置かれた。集落は旧小栗街道に沿って東方の高地につくられ、これに連なる堺南荘の西南西には小さく突き出した陸地があったという。澄んだ川がここに流れ込むにつれ、砂が年々堆積し陸化した。ここに村人が移り住んで遂に小さな漁村ができた。今の東湊、西湊、出島がこれである。徳川氏の世となってからは、大坂西町奉行の管轄となり、後に堺奉行に属した。明治初年に堺県となり、同14年には大阪府となった。同22年4月に町村制が施行され東西湊と出島を合わせて一つの村となった。大正4年10月に町制を敷き、湊町と改称した。そして同9年4月に堺市と合併したのである。この地には紀州と小栗の二つの街道がある。堺市を経て大阪に至る重要な地点である。和泉や河内の地方で生産された綿花の集積地で、大きな商家が軒を並べた。明治10年に外国産の綿花が輸入されると、商況は次第に衰えていった。しかしながら、年追うごとに都市化が進み、人口も近頃は1万5000人になんなんとしている。町の担当者は私に撰文を依頼してきた。そこで、私は古い記録の不明な点を明らかにして簡潔に記した。湊町の沿革は以上である。
江戸時代後期、河内や和泉は綿花の産地であり、湊には木綿問屋が軒を並べていた。ところが明治になって綿花が輸入されるようになると、綿花商は衰えていったのである。
現代のTPP以上の産業構造の激変に遭いながらも、湊村の人口は増え発展してゆく。そして、湊町となってしばらくして堺市に編入された。今では堺市の中心部と一体化している。都市化の流れの中での無理のない自然な合併だったのだろう。
それでも、ここに湊町があったことは、記念碑があるおかげで人々の記憶に留まっている。それだけではない。青年貴族、近衛文麿公の名がまぶしく見えた時代があったことも知ることができる。
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