仲代達矢さんに文化勲章が授与された。歌舞伎以外の俳優では5人目という。代表作の一つに黒澤明監督の『影武者』がある。勝新太郎が主役のはずだったが、監督とケンカして仲代が代役となった。仲代は迫真の演技を見せたが、勝の影武者も凄そうな気がする。
映画『影武者』では、武田信玄が狙撃されて死ぬ、という設定になっている。ホンマかいな?病死とちゃうのかい、といぶかるのが普通だろう。ところが、新城市豊島の野田城跡には「伝信玄公、狙撃場所」という表示が新城市教育委員会によって設置され、この時使われた火縄銃は「信玄砲」として市の文化財に指定されている。
徳川家康にも似たような話がある。鯛の天ぷらを食べて死んだと思われているが、実は槍で突き殺されていたというのだ。家康の墓は日光にあるが、堺にもあるという。さっそく現場に急行した。
堺市堺区南旅篭町東(みなみはたごちょうひがし)の南宗寺(なんしゅうじ)の境内に「徳川家康墓」がある。昭和42年の建立である。
徳川家康は今年が四百回忌で、静岡や愛知ではイベントが盛り上がっているらしい。通説では元和二年(1616)4月17日に駿府城で亡くなった。
京の豪商、茶屋四郎次郎が勧めた鯛の天ぷらを田中城(藤枝市)で食べたのが1月21日である。それから3か月、食あたりにしてはちょっと時間がかかり過ぎだ。そこで、胃がんを患っていたのだろう、という説が近年は有力となっている。
いや、天ぷらでも胃がんでもない、というのが今日紹介する逸話である。関英夫『堺の歴史』(山川出版社)に次のように紹介されている。
家康は大阪の役で茶臼山に本陣をしいていたが、真田幸村(信繁)に敗れ、敗走の途中道明寺付近で、大阪方の後藤又兵衛に刺され、堺へのがれたが、籠の扉をあけると息が絶えていた。戦争中なので秘密にして遺骸をかりに開山堂の下にほおむった。徳川の世になってから久能山に埋葬し、次いで日光に改葬したというのである。
家康は真田幸村と戦って敗れ、後藤又兵衛に槍で突き殺されている。役者揃いな話だけに、ホンマかいな?という疑問が湧いてくる。それでも、証拠はあるというのだ。
南宗寺の正門から北へ通じる道を「権現道」というのは家康が通ったからだとか、元和九年(1623)7月10日に秀忠、同年8月18日に家光とあいついでVIPが南宗寺を訪れたのは家康の菩提を弔うためだとか言われている。
状況証拠だけでなく物証もある。日光東照宮宝物館収蔵の「徳川家康所用網代駕籠(あじろかご)」には、屋根に穴が開いている。これが槍による穴だとされるが、鉄砲によるものだという見解もある。
こうした伝承により、南宗寺に徳川家康の墓が建てられた。発起人は水戸藩家老の子孫という三木啓次郎氏である。墓碑の建立には多くの人が賛同しているが、中でも著名なのは松下幸之助で、碑の裏面にその名が刻まれている。三木氏と懇意だったらしい。
茶臼山の戦いは慶長二十年(1615)5月7日だから、それから1年近く影武者が家康のふりをしていたのだろうか。やはりホンマかいな?だ。
しかし、考えてみるがよい。最新の学説(大山誠一氏)によれば、あの聖徳太子はいなかったのだという。古代最大のVIPがいないのなら、徳川家康が1年くらいいてもいなくても大したことはあるまい。
ディープラーニングさま
おっしゃるとおりだと思います。断片的な情報をつなぎ合わせて、物語が創られたのでしょう。
コメントありがとうございました。
投稿情報: 玉山 | 2016/12/19 21:38
家康が殺されたことを暗示するような穴の開いた籠を後生大事にとっておくことがおかしいと思います。
家康生前最後となった籠だから遺族家臣が手を加えず大事にとっておいたのでしょう。
家康が生きていたら、家康危機を示す証拠となるような品は処分させるか、穴を修繕させるかでしょう。
投稿情報: ディープラーニング | 2016/12/19 08:28