天下餅をついたのは信長、こねたのは秀吉、座って喰ったのが家康だ、という有名な狂歌がある。じゃあ、もち米を蒸したのは誰か?近世という時代は、織田信長が一人で切り開いたのではない。今日は、信長に先駆けた天下人の話である。
堺市堺区南旅篭町東(みなみはたごちょうひがし)の南宗寺(なんしゅうじ)の境内に「三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)公像」がある。写っていないが、側の見事な山門は、国指定重要文化財「甘露門」である。
三好長慶は父元長の菩提を弔うため、弘治三年(1557)に、現在の宿院あたりに南宗寺を開いた。寺の開基というゆかりで昨年、坐像が建立された。長慶像としては史上初だそうだ。制作は堺市特別功績者(文化功績)の彫刻家、岡村哲伸である。
さて、三好長慶とはどのような人物なのか。今回注目したい史料は『当代記』だ。これは詳細は不明ながら近世初期の貴重な年代記である。『当代記』とは、つまり当時の現代史の記録である。
この『当代記』巻一の冒頭に登場するのが、三好長慶なのだ。原文を読んでみよう。
三好修理大夫元来細川家侍頭、住国は四国也、天文年中より頻開武運成大身、保天下事二十年余、常歌道被好、連歌専数奇也、此兄弟衆何も連歌好士、修大を始当世之器用也、畿内丹波播磨但馬淡路四国、都合十三ヶ国之主也
三好長慶はもと細川家の家臣で、本拠は四国の阿波、三好郡である。天文年間から武運が開け大身となり、天下を保つこと二十余年。常に歌を好み、連歌をたしなんだ。彼の兄弟も連歌が得意で、長慶を始めとして当時一流の人物であった。畿内、丹波、播磨、但馬、淡路に四国、全部で13か国を支配していた。
天下統一といえば、信長、秀吉、家康の三英傑である。しかし、長慶は信長に先駆けて天下を保っていたというのだ。それが近世初頭の歴史認識だったのだろう。現代は信長があまりにもクローズアップされているから、長慶の影が薄くなっている。
長慶が天下を保ったというのは、単に京を制圧したからではない。今日紹介している南宗寺のある堺を押さえていたことに意味がある。当時の経済の中心は堺、政治の中心は京である。政経の両拠点を支配下に置いたことが、天下を保ったことを意味している。
堺と京の両拠点は信長に引き継がれ、秀吉以降は大坂と京に移行し、家康に至って大坂と江戸の政経両拠点を中心として近世社会が成立する。そういう意味では、三好長慶が近世を切り開いたと言って過言ではないだろう。
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