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弥次さんが大仏殿の柱の穴をくぐろうとして、お腹がつかえて抜けられなくなってしまった。喜多さんは、前から引っ張ったり後ろから引っ張ったり、必死で助け出そうとしている。
喜多「エヽ、そんなに前へ廻つたり後へ廻つたり引出しては引戻し、いつまでも果しがねへ。コリヤいゝ算段がある。」
そばに見てゐたりし、参詣の人を頼みて、
「モシ、どうぞこつちらから、おめへ引張つて下さいませ。わしがあつちへ廻つて、足を引きずり出しますから。」
弥次「ばかァいふな、両方から引張つては出る瀬がねへ。」
弥次さん喜多さんのズッコケ旅『東海道中膝栗毛』で、お気に入りの名場面だ。ただし、この穴くぐりは修学旅行の小学生に人気の東大寺ではなく、京の方広寺である。
作者は十返舎一九。この印象的なペンネームは記憶に残りやすい。江戸の人だろうと思っていたが、活躍したのは江戸でも、生まれは静岡であった。今日はその生誕地のレポートである。
静岡市葵区両替町一丁目に「十返舎一九生家跡伝承地」がある。郵便さんのバイクは何の関係もない。
静岡市中心部は、静岡大火や空襲そして再開発などで、古い町並みがほとんど残っていない。ここ両替町通りも、駿府城下町の一角であったことを地名として伝えるだけである。
先月の報道によれば、長野県安曇野市内の旧家から十返舎一九の自筆書状が発見されたという。取材旅行で世話になった礼状で「重田一九」との署名があった。「重田」は一九の実家の名字である。生家跡に立つ説明板を読んでみよう。
『膝栗毛』で名高い江戸の戯作者、十返舎一九は、駿府町奉行同心重田與八郎鞭助(べんすけ)・妻りへの長男として、明和二年(一七六五)両替町一丁目のこの地で生れた。幼名市九、通称七郎、名は貞一(さだかず)という。
享和二年(一八〇二)三十八歳で『東海道中膝栗毛』を刊行し、一九の文名は大いに揚がり、以来文筆一本で生計を立てた我が国最初の職業作家と称された。
若くして俳諧を始め、大阪では浄瑠璃作者としても活躍したが、後に江戸に出て自作自画の黄表紙を始め、洒落本・滑稽本・合巻・読本・人情本・咄本等に筆をとり、また、狂歌集・往来物等も多数出版した。
生来まことに多芸多才の人で、武芸・香道・書法等にも通じており、絵師としても高い才能を認められている。
一九は、継ぐべき重田家第九代を弟義十郎に譲って江戸へ出たが、義十郎に子がなかったため、一九の長男定吉が重田家第十代を継いだという。
天保二年(一八三一)八月七日歿。六十七歳。浅草東陽院(現在は中央区勝どきに移転)に葬られた。戒名は、「心月院一九日光信士」とある。
伝えられる辞世歌は、『十返舎一九研究』より
この世をばどりゃおいとまと線香の煙と共にハイ(灰)さようなら
駿府十返舎一九研究会
「絵師としても高い才能」だという。ネットで検索すると熊本県立美術館所蔵の「吉備大臣図」を見ることができる。まことに文才、画才ともに優れた「多芸多才」のマルチ・クリエーターだ。現代では宮藤官九郎やFROGMANが、そうした天才の系譜をひいているように思うが、どうだろうか。天才とはいえ、一九の作品は先に触れたように綿密な取材に基づいて生み出されている。見えない努力が天才に見させるのだろう。
また「文筆一本で生計を立てた我が国最初の職業作家」ということだが、同時代の曲亭馬琴も同じように評されている。どちらがプロ作家第1号か、ここで判定することはできないが、このことは化政文化が出版文化だったことを示している。
その背景には、寺子屋を中心とした教育の普及がある。識字率の上昇に伴い文学作品の需要が生じ、それに応えて一九が『膝栗毛』でユーモアを、馬琴が『八犬伝』でスペクタクルを供給したのであった。
これまた報道によれば、来年1月に東京と大阪で「おん・すてーじ『真夜中の弥次さん喜多さん』」という舞台が上演されるそうだ。一九の創作した作品のキャラクターやモチーフに、後世のクリエーターがインスパイアされているのだ。一時の流行に終わらない作品を名作というが、我が国ではプロ作家の誕生とともに、二百年楽しめる名作が創られていたのである。
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