大正天皇は有名なゴシップ、遠眼鏡事件で病弱なイメージが増幅した。しかし天皇は、皇太子時代に全国各地を訪れ、国民からの大歓迎を受けていた。明治40年10月には、韓国にさえ訪問しているのである。精力的に行動する青年だったのだ。
宮津市の天橋立に「御上陸の碑」がある。石碑には「皇太子殿下…」と刻まれているが、下が埋もれているようだ。樹齢600年ともいう「千貫松」のすぐ隣にある。
皇太子が天橋立を訪れたのは明治40年(1907)。韓国訪問に先立つ5月13日のことである。
山陰行啓を目的として、5月10日に新橋駅を出発し名古屋に一泊して、11日夕刻に新舞鶴駅(現在の東舞鶴駅)に到着した。12日は舞鶴鎮守府と海軍工廠を視察し、13日は舞鶴要塞視察後の9時20分に、舞鶴港からお召艦「追風(おいて)」に乗船し、天橋立に向かった。その後の様子を『山陰道行啓録』(稲吉金太郎、明治40)で読んでみよう。
承り及ぶ所に拠れば 殿下には殊の外海上に慣れさせ給ひ毫も船暈を厭はせ給はざるやにて日頃「酔ふ者が悪い」と宣はせらるゝが常とかや畏しとも畏し、艇は高速力の事とて一時間を終へぬ間に早や与謝湾頭黒崎に近づきぬ遥に浮べる小船より白煙揚ると見る間に続て奉迎の煙火は各所に起れり艇は漸く湾内近く進みつ視界の及ぶ処白砂の上青松の下黒く一直線を曳けるもの総て是れ人垣なり人垣は地上各団体学校生徒近郷近在の群集もて築かれたるもの万歳の声は天橋も揺がんばかり 殿下は始終莞爾として微笑ませられき、斯て艇は十時三十分橋立近く千貫松の沖合に停りぬ、勇ましき奏楽の中に 殿下は村木東宮武官長、東郷大将等を随へさせられ艦載水雷艇に移らせ玉ひ千貫松の磯辺に新設せる桟橋より御上陸相成り、六角形の小亭に入らせらる
聞くところによれば、殿下は海にも慣れ、少しも船酔いされることはなかった。日頃から「酔う者が悪い」と言われているとのことだが、おそれおおいことだ。船は高速なので1時間もたたぬうちに宮津湾の入り口の黒崎に近付いた。遠くに浮かぶ小船から白い煙が上がると、続いて歓迎の煙も各地で上がった。船はゆっくりと湾内を進んだ。白砂青松に黒い一直線が見渡す限り続いていたが、これはすべて人垣であった。人垣は地元や近くの各団体や学校の生徒をはじめとする群集であった。「万歳」の声で天橋立も揺れるかのようだ。殿下は常ににこにこと微笑まれておられた。こうして船は10時30分に天橋立の千貫松の沖合に停泊した。勇ましい音楽が演奏される中、殿下は村木雅美東宮武官長、東郷平八郎大将らを随行として水雷艇にお移りになり、千貫松前に新設された桟橋に上陸され、六角形の小さな建物にお入りになった。
こうして皇太子は、天橋立の千貫松付近に船を横付けするような形で上陸した。現代の私たちは、文殊地区と府中地区のどちらかから歩いて、あるいはレンタサイクルで観光する。千貫松の前から宮津湾を眺めると、穏やかな海が広がっている。風景は昔と同じだろうが、皇太子や東郷大将が上陸する姿を想像するのは難しい。
日露戦争の勝利後間もない時期である。天皇に次ぐ高貴な方がいらっしゃるということで、地元の人々の気持ちも高揚していたことだろう。神様のご子孫のお姿を仰ぎ見て、感極まり泣き出す者もいたという。
地方の住民は、皇太子を奉迎することを通して、大日本帝国の臣民であることを自覚したのだ。本日紹介している天橋立へのご上陸は、まさに国民国家形成の一場面だと言えよう。
上陸後、皇太子は地引網の実演をご覧になり、人力車で府中地区に入った。籠神社に参拝後、ケーブルカーもリフトもなかったので徒歩で「傘松御少憩所」に登った。名物「股のぞき」をしたとは記録されていない。
その後、再び天橋立に戻り、文殊方面に向かう。今の磯清水のあたりに新設された休憩所で昼食をとり、近くに記念植樹として松を植えた。その場所がここだ。
「御手植の松」がある、というか、ない。聞くところによると、平成19年に強風のため倒れ、撤去されたようだ。石碑には「明治四十年五月十三日 皇太子殿下御手植…」と刻まれている。
松は当時としては珍しい北米原産のダイオウショウだったという。撤去された松は京都伝統工芸大学校で工芸品に加工されたと聞く。
記念植樹をした皇太子は文殊方面に向かい、前年に開校したばかりの府立第4中学校(現在の府立宮津高校)で授業を参観した。翌日、再びお召艦に乗船し、山陰へと旅を続けていく。皇太子は次々とハードスケジュールをこなし、地方住民との間に強い紐帯を結んだのである。
多額の予算をかけて行われた盛大な行事が、国民意識を高めたことは確かだが、今それを偲ぶものは少ない。記念樹の松も失われてしまった。
御手植の松は、生きた聖遺物として後世に伝えられてきた。千貫松のような巨木に成長し、大正天皇の名とともに由緒が語り継がれるはずだった。
しかし、そこは生もの、失われるリスクは当然ある。自然の猛威を前にすれば、人為など小さいものだ。せめて、このブログで記念植樹の事実を、大正天皇の精力的な活動の一端として紹介し、倒れた松の供養としたい。
すぐ隣に、もう一つ、皇太子による「御手植の松」がある。こちらは大正5年に、後の昭和天皇によって植えられたものである。皇室と天橋立の関係はかくも深い。片や日本国民統合の象徴、片や日本有数の景勝地である。日本らしさとは、このような場所に表れているのかもしれない。
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