雪舟の『天橋立図』は、我が国を代表する水墨画であると同時に、歴史地理の貴重な記録である。そこには今より少し短い中世の天橋立が描かれている。水墨画の第一人者との出会いは、天橋立にとって貴重な付加価値となった。
およそ水墨画というものは墨のにじみで表現するから、細部なぞ描かれないと思っていた。それは違う。本日は、絵をクローズアップして、日本三文殊で知られる智恩寺に注目する。「雪舟 天橋立図」と画像検索して、絵の左下をよく見てもらいたい。
宮津市文殊の「智恩寺多宝塔」は、写真で分かるように優美で、しかも古い建築のため、国の重要文化財(建造物)に指定されている。
キリリと引き締まった美しい多宝塔は、いったい誰がいつ建立したのか。宮津市教育委員会の説明板を読んでみよう。
本寺多宝塔は、上重の柱等に記される墨書銘によって、丹後国守護代で府中城主延永修理進春信によって建立され、明応十年(一五〇一)に落成したことが知られる。
円形のくびれあたりの柱に、寄進者と年代が記されているらしい。当時の丹後守護は一色氏であったが、守護代の延永(のべなが)氏の力が増していた。しかし、多宝塔を建立した頃から、延永氏とそのライバル石川氏の抗争が激しくなり、最終的には延永氏が敗退してしまう。戦乱で焼けることなく今に伝えられたのは幸いであった。
智恩寺の境内、多宝塔の向かい側のあたりに「石造地蔵菩薩立像」がある。こちらは市の有形文化財(彫刻)に指定されている。
お地蔵さんは小さくて可愛らしい姿をしていることが多い。こちらも赤いよだれかけをしているが、少々大人びた雰囲気だ。「等身地蔵」ともいう。説明板を読んでみよう。
二躯が並ぶ内の向かって右側のものは、最も保存状態が良く作風的にも優れている。背面の銘文によると、応永三十四年(一四二七)に、三重郷(現中郡大宮町)の、大江越中守(法名永松)の発願により造立された一千体地蔵の内のひとつとなるが、他に同類の作は知られていない。
大江越中守は一色氏の陣代で、信仰心の篤い武将だったようだ。一千体地蔵の一つというが、他に類例がないともいう。少々よく分からないが、肝心なのは説明板の次の記述である。
これらの地蔵像については、雪舟筆の国宝「天橋立図」に、それらしい姿が描かれており、智恩寺の歴史とも関わりが深い。
なんと、このお地蔵さまを雪舟が描いているという。あらためて「天橋立図」を詳細に鑑賞しよう。
画面右から天橋立がのびている。その先を今の私たちなら廻旋橋(かいせんきょう)を渡ることになるが、雪舟の時代には切戸(きれと)の幅が広かった。対岸には智恩寺の文殊堂がある。その右には写真で紹介した多宝塔、その下に立ち姿の二体の石仏が描かれている。つまり、雪舟と同じものを私たちは見ているのだ。
あまりにも有名な「天橋立図」だが、七不思議があるという。①どこでスケッチしたのか?絵と同じように見える視点は上空900mだそうだ。②遠近はどうなっているのか?見えるはずのないものも見えているとか。③いつ描かれたのか?16世紀初頭というが、雪舟は80歳代だ。④なぜ描いたのか?そこに天橋立があるからだ。⑤なぜ貼り合わせた絵なのか?ある意味よくできた21ピースのジグソーパズルだ。⑥誰が所有していたのか。籠神社の海部宮司家→土佐藩主山内家→京都国立博物館というが。⑦描かれていない地区があるのはなぜか?今の宮津市中野がないという。
幸いなのは、誰が描いたか、が謎でないことだ。絵画は何がどのように描かれているかを鑑賞するのが本来だが、絵筆をとった人物に思いをはせるのも大きな楽しみである。目の前の石地蔵を通じて、私は雪舟とつながったのである。
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