「芋侍(いもざむらい)」はバカにした言い方だが、「芋代官(いもだいかん)」は敬意のこもった呼び名である。「いも代官様」と呼ばれるその人の名を、「井戸平左衛門(いどへいざえもん)」という。
大田市大森町に「井戸神社」が鎮座する。明治12年5月26日の創立で、大正5年に現在地に遷座した。祭神の井戸正明(まさあきら)公は、明治43年11月16日に贈従四位に叙せられている。
いも殿様とも崇められる井戸平左衛門は、なぜ尊敬されているのか、なぜ「いも」なのか、説明板を読んでみよう。
神社には、江戸幕府から派遣された十九代の代官である井戸平左衛門が祀られています。
井戸平左衛門は享保十六年から同十八年(一七三一~一七三三)まで石見銀山領の代官を務めました。
任期中の享保十七年(一七三二)に「享保の大飢饉」が発生し、西日本の各地ではたくさんの餓死者が出ました。
しかし、江戸幕府の資料「徳川実記」によれば「井戸平左衛門御代官所、夫食(食料)行き届き餓死人これなき由」とあり、石見銀山領では餓死する者がいなかったといいます。
これは、井戸代官が自らの財産や裕福な領民から募った資金により、米を買い集めるとともに、幕府の許可を待たずに代官所の米蔵を開いて、飢えた人々に米を与えたためと伝えられています。
また、大森町榮泉寺で旅の僧「泰永」と出会い、やせた土地でも栽培できる薩摩芋のことを知りました。当時は主な産地である薩摩藩からの持ち出しが禁止されていましたが、苦労の末に取り寄せて栽培に成功しました。
井戸平左衛門は享保十八年(一七三三)五月二十六日に備中(岡山県)笠岡で亡くなりました。その後、飢饉を救った功績を称える石碑が各地に建てられましたが、旧石見銀山領を中心に約五百ヶ所が確認されています。
石見銀山を中心とする天領4万8千石を管轄する大森代官所の代官には、153か村の人々の生命と安全を守る重い責任があった。何事もなければ、平左衛門も代官として名前が記録されるにとどまったことだろう。
危機はいつも予想外だ。平左衛門が赴任した翌年、西日本は長雨や冷夏に加えイナゴやウンカの虫害に襲われ、稲作は壊滅的な打撃を受ける。餓死者が1万2千人に達した「享保の大飢饉」である。
リーダーの真価は危機管理能力によって決まる。この危機に直面し、平左衛門が行ったことは二つ、短期的な視点からは備蓄米の放出、長期的な視点からは代替作物の導入である。つまり、当面は御蔵米で飢えをしのぎ、同時にサツマイモの栽培を普及して将来のリスクを低減するというものだ。
平左衛門公が「いも代官」なのは、サツマイモの普及を称えられているからだが、公がその存在を知ったのは享保十七年(1732)4月14日、栄泉寺で養父の法要を行った日だという。その日偶然に出会ったのが、薩摩出身の泰永という雲水であった。早速、泰永と手代の伊達金三郎に種芋の入手を命じ、100斤(60kg)の取り寄せに成功する。甘藷先生青木昆陽によるサツマイモの試作、享保20年(1735)に先立つ画期的なことであった。
ところが、植え付けをしたのが7月、今の暦では8月から9月にかけてとなり、植え付けには遅すぎる。腐る種芋がほとんどだったが、福光村の松浦屋与兵衛は栽培と越冬に成功した。井戸神社の境内にある「松浦屋与兵衛之碑」には「石見ニオケルイモ作リノ始祖トナル」とまれている。
享保八年(1733)4月、平左衛門は備中笠岡への異動を命じられ、そして間もなくの5月26日に亡くなる。享年62。病死とも切腹ともいわれている。切腹説によれば、無断で御蔵米を放出した責めを負ったとし、死の三日後に赦免と長崎奉行任命の知らせが届いたという。ちと劇的すぎやしないか。病死説が妥当だろう。
安全保障は国の根幹である。参議院選挙が近付き、アベノミクスの是非がどうのと言っているが、安全保障について語られることは少ない。安保法制はすっかり過去のものなのか。
戦争の可能性を低減するのはもちろんのこと、いざという時に備えて食料の確保をしておくことこそ、安全保障の要諦である。食料安全保障の神様が現代の私たちの選択を見ている。
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