大河「真田丸」では、小気味よくしゃべる小日向(こひなた)秀吉が我が道を進むようになった。秀頼の出生により、秀次の運命をはじめ何もかもが狂って、秀吉政権は末期症状を呈することになる。
「真田丸」の舞台は関東から中部、近畿であって、西日本の大半は関係がない。ところが、今日レポートするのは岡山県倉敷市児島地区である。児島と真田氏にはどのような関係があるのだろうか。
倉敷市児島由加の蓮台寺多宝塔のそばに「真田幸村公頌徳碑」がある。
説明板はないが、碑の裏面に「昭和十八年三月建之」とあるので、戦時中に建てられたことが分かる。真田幸村のような乾坤一擲の大勝負を米英に対して敢行しようと意気込みが込められているのかもしれない。頌徳とは徳をたたえることだが、領民でもなかった児島の人々が幸村を慕うのには理由がある。
児島には「児島三白」と呼ばれる特産品が有名だった。三つの白いもの、それは塩、いかなご、そして綿である。このうち綿に象徴される繊維業は、「ジーンズ」(ビッグジョンなど)や「学生服」(菅公学生服など)で今も全国に知られている。
意外に知られていないのは、畳の縁についている細くてきれいな布、「畳縁(たたみべり)」である。その全国シェア35%以上を誇るメーカー高田織物は児島にある。畳縁のような細い幅の織物が児島の繊維業の源流なのだという。角田直一『児島の日本一物語』(児島ライオンズクラブ)には次のように記述されている。
児島の細巾織物は岡山県の繊維工業のうちで最も古い歴史を持っている。機業地としての児島の存在は細巾ととともにはじまったといっても過言ではない。
江戸時代の児島でさかんに作られていた細巾織物、それが「真田紐」であった。かつては美しく丈夫な紐として、武具などに用途があったが、現代は桐箱の紐だとか帯締めの紐に使われ、ストラップにもなっている。
気になるのは、なぜ「真田」と呼ばれるのか、ということだ。江戸時代中期の伊勢貞丈『安斎随筆』には、次のように説明されている。
サナタ紐
腐纜集に云く啄木の組の訓は彼の鳥の木をはみたる形をうつしたり乱世略して永禄の頃木綿渡りて後木綿にてオドシたり然るに信濃上田城主真田安房守昌幸慶長五子年関ケ原合戦以後高野の九度山に其の子左衛門幸村とともに牢人の時に正宗の刀貞宗の脇差を彼の木綿の啄木にて柄を巻きたるを世人真田糸と唱へしよりサナタの俗唱となれり
古い本によれば、「啄木組(たくぼくぐみ)」の意味は、キツツキがついばんだ跡のような模様に組まれた紐のことである。乱世が終息した永禄年間に木綿が伝わり、それからは木綿でつづって鎧をつくった。信州上田城主の真田安房守昌幸は、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いに敗れ、高野の九度山に子の信繁とともに隠棲した。その時、彼らは正宗や貞宗の刀の柄(つか)を木綿で作った啄木組の紐で巻いていた。これを世の人々が「真田糸」と呼んだことから、紐に「真田」の俗称が生じたのである。
児島の繊維業の源流は真田幸村にあり。幸村公のおかげで今の私たちがある。児島の人々はそう考えて頌徳碑を建立したのだろう。
「真田丸」でも、やがて真田父子の九度山時代が描かれることになろう。草刈正雄や堺雅人が真田紐を内職で作っているシーンがあれば、どうかこの記事のことを思い出していただきたい。
ご教示ありがとうございます。
組紐までが「真田」という名称で広まったのは、やはり幸村人気が過熱したためでしょうか。
勉強になりました。
投稿情報: 玉山 | 2019/08/15 18:26
啄木紐は組紐の一種で掛け軸の上についてる紐です。真田紐は織物ですのでちょっと違う紐てすが同じ平たい紐ですので当時も誤解があったようですね。
投稿情報: 真田紐屋さん | 2019/08/14 23:44