先般の東京都知事選挙では、古い体質の自民党東京都議団を抵抗勢力に見立て、「東京大改革を一緒に始めてほしい」と訴えた小池候補が勝利した。守旧派に比べて改革派が強いのは、今も昔も変わらない。
今回はずっとさかのぼって聖徳太子の時代にタイムトラベルする。そこでは、守旧派の物部氏と改革派の蘇我氏が争っていた。
奈良県生駒郡平群町椿井(つばい)に「椿井」がある。地名の由来となった井戸である。
では、なぜ「椿井」というのか。先に結論から述べよう。『平群町史』に掲載されている「椿井」の由来である。
大字椿井も井の傍に椿樹を植えて猪害を防ぎ、椿の炭を井底に敷くと良水が湧出するということから起った字名である。
多孔質の木炭には、水の浄化作用がある。とりわけ椿炭は、高級木炭として知られている。堺市堺区宿院町西1丁の「千利休屋敷跡」にある「椿の井戸」も椿の炭を沈めていたというから、先人の知恵の一つなのだろう。
平群町の「椿井」が興味深いのは、単に生活の知恵に由来する地名というだけでなく、物部氏VS蘇我氏のドラマを語り継いでいることだ。『平群町史』には、次のような資料が掲載されている。
椿井戸の起源
用明天皇二年七月厩戸皇子(聖徳太子)物部守屋御征討ノ砌リ軍怯シテ退カルル事三度此度ノ戦中々ノ苦戦ニシテ兵共ノ英気大イニ衰フ。椿井ノ祖(孝安天皇第一皇子平群大大吉備諸進尊後裔二拾九代目)神手小将軍大宿禰御味方奉り此ノ時大宿禰ノ持タセタマヘル椿ノ杖ヲ椿井領地此ノ処二勝利ヲ祈リテ挿シ給ヒシニ不思議ヤー夜ニシテ芽萌エ葉生ジ剰サヱ其ノ辺リヨリ冷泉ノ溢々トシテ湧キ出デ汲メド儘キズ「這ハ目出度キ瑞祥ナリ」トテ太子モ大イニ喜ビ給ヒテ此ノ水ニテ盃ヲ乾シ給ヒ大宿禰一同兵共二承ヒシニ士気大イニ昇リ再ビ兵ヲ整ヘー挙二守屋ヲ征メ亡シ大勝ヲ帰シ大イニ此ノ井戸ヲ祝福シ給ヘリ。其レヨリ此ノ井戸ヲ椿井戸卜称シ昭和ノ御代到ル迄千四百四拾有余年ノ歴史ヲ有スル神水ナレバ諸人此ノ水ヲ呑ミテ祈レバ願望成就亦霊験新ナルモ有ラン 此ノ処ニテ不浄ノ行為無キ様御注意願マス
昭和六年二月
用明天皇二年(587)7月、聖徳太子(当時は厩戸皇子)が蘇我馬子の軍に加わり物部守屋を攻めた時、兵士がおじけづき、3回も退却するほどの苦戦となり、なかなか士気が上がらなかった。
この時、ここ椿井の先人で、孝安天皇第一皇子、大吉備諸進命(おおきびのもろすすみのみこと)の後裔29代目にあたる平群神手(へぐりのかみて)将軍が、太子の味方となり、持っていた椿の杖を勝利を祈ってこの地に挿すと、あら不思議、芽が出て葉が生え、おまけに冷泉が湧き出て、汲んでも尽きることがなかった。「これはめでたいことが起こるきざしだ!」と太子は大いに喜んで、この水で乾杯し、兵士たちの士気は大いに上がった。再び兵を整え、一挙に守屋を攻め滅ぼして勝利を得ると、この井戸のおかげと大いに称賛したのであった。
それ以来この井戸は「椿井戸」と呼ばれるようになり、昭和の御世にいたるまで千四百四十有余年の歴史がある。神様の水なので、どの方もこの水を飲んで祈れば願いがかない、よいことが起きるであろう。
これは由緒ある井戸である。弘法大師が杖を突いたら水が湧き出たという話とよく似ているが、ここでは地元の豪族、平群神手将軍が起こした奇跡である。有名な平群真鳥(へぐりのまとり)から数えて6代目の子孫である。
「崇峻即位前紀」の用明天皇二年(587)7月条に、「平群臣神手(へぐりのおみかみて)」が、改革派の蘇我馬子や聖徳太子とともに、守旧派の物部守屋を討ったことが記されている。これによって我が国に新宗教、仏教が本格的に導入されることとなり、今に至る思想の潮流が生み出されたのである。
聖徳太子を支え、我が国の政治、そして思想の改革に貢献した平郡神手将軍。将軍ゆかりの井戸水は、科学的には木炭の水質浄化作用による良水かもしれないが、民俗学的には将軍が杖で突いたから湧き出た浄水なのである。
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