北海高校が敗れ、北海道の短い夏が終わった。試合が終わって外出すると、蝉の声さえしない。どうやら岡山も、夏が去りゆくらしい。草むらでは、コオロギが鳴いていた。ただ、焼けつく陽射しだけが夏の存在証明である。
今日は、秋の散策におススメの、庶民に親しまれてきた路傍の石仏を紹介する。そこには数百年にわたる多くの人々の手の痕跡を見ることができる。
子どもの頃に住んでいた家の柱は、手の当たる部分だけツヤが出ていた。手で触るばかりしていれば汚れそうなものだが、手入れもしないのにツルツルしていた。やわな手なのに時間をかければ、すごい仕事ができる。
奈良県生駒郡平群町椿井(つばい)に「笠石仏如来像(椿井線刻石仏)」がある。町指定の有形文化財である。
今も昔もこのような風景だったかのように、静かに里人を見守っている。『平群町史』にはどのように記されているのだろうか、読んでみよう。
長方形の枠とりした中を壺型にほりこみ美しい薬師如来立像を線刻している。下半部はよく表れているが、お顔の部分など上半部はかなり摩滅している。清水俊明氏は鎌倉中期を下ることはないであろうと「大和の石仏」に記されている。
「線彫り」によって浮かび上がった仏さまの姿はとりわけ美しい。笠置寺の「伝虚空蔵磨崖仏」がそうだ。その巨大さは、かつては修行者を畏怖させ、今は観光客を感動させている。
いっぽう、こちらは路傍の石仏である。鎌倉時代の石仏がふつうに路傍にたたずむという不思議。いや、自然な信仰の風景とはこういうものなのだろう。仏像は上下二つに割れている。昔、牛馬をつないだために引き倒されたのだという。石仏は常に民衆とともにあった。
下のほうは線刻が美しく残っているが、お顔のあたりはつるつるして容貌は分からない。かつてのバーミヤン大仏も顔がなかったが、これは古い時代にイスラム教徒に削り取られたものだという。
しかし、椿井の線刻仏は信者がご利益を得ようとしたのか、長年にわたって手で撫でられたために、摩滅したようだ。どのようなお顔だったのか気にはなるが、摩滅したことは篤い信仰の証として大きな意味がある。
軽井沢の堀辰雄が愛した石仏もそうだったが、素朴さを好む人は多い。線刻の精密さは、現代のレーザー彫刻にはとてもかなわない。しかし私たちは精密さだけに価値があると考えていないし、手彫りの質感も美的要素の一つとして大切にしている。路傍の石仏の美は、民衆によって磨かれていくのだ。
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