天皇陛下が一昨日、おことばで生前退位の意向を述べられた。このことに伴い皇室典範の改正が議論されているが、単に法整備の問題にとどまらず、高齢化社会における生き方が問われているように思える。陛下の悩みはご自身にとどまることなく、我が国において高齢者がいかに人生をまっとうするか、という意味において全国民で共有すべき問題であろう。
今日の話題は奈良時代の長屋王(ながやおう)という皇族である。牽強付会のようで恐縮だが、皇位継承は今も昔も、いや昔こそ大変な問題であった。長屋王もその渦中に巻き込まれたひとりである。
唐突だが、ゆるキャラの話をしよう。私は、昨年のゆるキャラグランプリで優勝した「出世大名家康くん」のように、歴史を根拠としながらも、ゆるいキャラクターが好きだ。あまり知られていないが、奈良県の平群(へぐり)町には、「長屋くん」がいる。
まん丸い目で古代の官人の服装をしている。モデルとなったのはもちろん長屋王である。見た感じ実にゆるい長屋くんだが、王本人の最期は、悲劇以外の何ものでもない。天武天皇直系の実力者でありながら、いや、それ故に藤原氏によって排除されることになった。あおによし奈良の都には、激しい権力闘争が渦巻いていた。
奈良県生駒郡平群町梨本に「天武天皇皇孫長屋王御墓」がある。
道に沿って少し歩くと、王の妃の墓がある。天気の良い日、静かな里を歩いていると、長屋くんのキャラのように、のほほんとした気分になる。悲劇があったことなど、忘れてしまうくらいだ。
奈良県生駒郡平群町梨本に「岡宮天皇皇女吉備内親王(きびのないしんのう)御墓」がある。岡宮天皇は草壁皇子の諡号である。吉備内親王も天武天皇からは皇孫にあたる。
まずは長屋王の変の顛末を、797年完成の『続日本紀』、その巻第十で確認しておこう。
≪天平元年(729年)二月十日≫左京の人従七位下漆部造君足、无位中臣宮処連東人(なかとみのみやこあずまひと)等、密(ひそかごと)を告て、「左大臣正二位長屋王、私(ひそか)に左道(さどう)を学び、国家を傾むと欲(す)」と称(まう)す。其の夜、使を遣(つかはし)て三関(さんげん)を固く守らしむ。因て式部卿従三位藤原朝臣宇合、衛門佐(すけ)従五位下佐味朝臣虫麻呂、左衛士佐外従五位下津嶋朝臣家道、右衛士佐外従五位下紀朝臣佐比物等を遣し、六衛(ろくえ)の兵を将(ひきゐ)て、長屋王の宅を囲ましむ。
≪十一日≫巳の時に、一品舎人親王、新田部親王、大納言従二位多治比真人池守、中納言正三位藤原朝臣武智麻呂、右中弁正五位下小野朝臣牛養、少納言外従五位下巨勢朝臣宿奈麻呂等を遣し、長屋王の宅に就き、其罪を窮問(きうもん)せしむ。
≪十二日≫王をして自ら尽(し)なしむ。其の室二品吉備内親王、男従四位下膳夫王、无位桑田王、葛木王、鉤取王等、同亦自ら経(くび)る。乃悉に家内の人等を捉へ、左右の衛士兵衛等の府に禁め著く。
≪十三日≫使いを遣て長屋王吉備内親王の屍を生馬(いこま)山に葬らしむ。仍りて勅して曰く、「吉備 内親王は罪無し。宜く例に准しめ送葬すべし。唯、鼓吹を停めよ。其の家令帳内(とねり)等並に放免従ふ。長屋王は、犯に依て誅に伏す。罪人に准ずと雖も、其葬を醜すること莫れ」 と。
我が国近隣の独裁国家で近年、要人が「国家転覆陰謀行為」により処刑された。長屋王の変においても「国家を傾ける」陰謀があったという。ただ、真実かどうかは分からない。要人を粛清する際には、よくある口実でもある。
長屋王の変を伝える史料がもう一つあるので、内容の確認をしておこう。822年ごろ成立という『日本国現報善悪霊異記(日本霊異記)』、その中巻「己が高徳を恃(たの)み、賤形の沙弥(しゃみ)を刑(う)ちて、以て現に悪死を得し縁 第一」の一部である。
時に一(ひとり)の沙弥有り。濫(みだれがは)しく供養を盛る処に就きて、鉢を捧げて飯を受けたり。親王之を見て、牙冊(げさく)を以て沙弥の頭を罰(う)つ。頭破(わ)れて血を流す。沙弥頭を摩(な)で、血を捫(のご)ひて、悕(うらめし)み哭(なげ)きて、忽(たちまち)に覲(み)えず。去れる所を知らず。
時に法会の衆、道俗、偸(ひそか)にささめきて言はく、「凶(あ)し、善くはあらず」といふ。
之を二日逕(へ)て、嫉妬(うらや)みする人有りて、天皇に讒(しこ)ぢて奏(まう)さく、「長屋、社稷(すべらぎのもと)を傾けむことを謀り、国位(みかどのくらゐ)を奪らむとす」とまうす。爰(ここ)に天心(みこころ)に瞋怒(いか)りたまひ、軍兵を遣はして陳(たたか)ふ。親王(みこ)自ら念(おも)へらく、「罪无(な)くして囚執(とら)はる。此れ決定(くゑつぢやう)して死ぬるならむ。他の為に刑(う)ち殺されむよりは、自ら死なむには如かじ」とおもへり。即ち、其の子孫に毒薬を服せしめ、絞(くび)り死(ころ)し畢(をは)りて後、親王、薬を服して自害したまふ。
天皇、勅(みことのり)して、彼の屍骸(しにかばね)を城の外へ捨てて、焼き末(くだ)き、河に散らし、海に擲(す)てつ。唯し親王の骨は土佐国に流しつ。時に其の国の百姓に死ぬるひと多し。云(ここ)に百姓患(うれ)へて官(つかさ)に解(げ)して言さく、「親王の気(け)に依りて、国の内の百姓皆死に亡すべし」とまうす。天皇、聞して、皇都(みやこ)に近づけむが為に、紀伊国の海部(あま)郡の椒枡(はじかみ)の奥(おき)の嶋に置きたまふ。
二つの史料を比べると、埋葬場所が異なっている。『続日本紀』の伝える「生馬山」は、今回紹介している古墳のことだろう。ところが『日本霊異記』が伝えたのは、まったく異なる内容だ。骨にされてまでも土佐に流され、その国の百姓に祟ったため、紀伊国海部郡に改葬されたというのだ。有田市初島町浜の県指定史跡「椒(はじかみ)古墳」が王の墓だと言い伝わる。
密告の内容は皇位簒奪であり、『続日本紀』や独裁国家の論理と変わりない。しかし、王の最期の様子は『続日本紀』よりも詳しい。無実を訴えるものの、死罪とされることを予想している。刑死するくらいなら、自ら死んだほうがましだ。そう判断して自害に及んだのである。
やはり長屋王の変は、奈良時代最大の冤罪事件ではなかったのか。そんな目で『続日本紀』を読み進めると、天平十年(738)七月十日条に次のような記述があることに気付く。
左兵庫少属従八位大伴宿祢子虫、刀を以て右兵庫頭外従五位下中臣宮処東人を斫(き)り殺しつ。初め子虫は長屋王に事(つか)へて、頗(すこぶ)る恩遇を蒙(こうむ)れり。是に至りて適(まさ)に東人とともに比寮に任ず。政事の隙(ひま)に相共に碁を囲む。語(こと)長屋王に及べば、憤発(いきどほ)りて罵(ののし)り、遂に剣(つるぎ)を引(ぬ)き、斫りて殺しつ。東人は長屋王の事を誣告(ぶこく)せし人なり。
二人の国家公務員が休憩時間に囲碁をしながら話している。
子虫「ああ、こんな職階のままじゃ、ちっともやる気が出ねえよ。長屋王さまがいらっしゃれば、出世できたろうになあ」
東人「オレなんか長屋王のおかげで出世したようなもんだよ」
子虫「ん?どういうことだよ。オマエ、あのころ無位じゃなかったか?」
東人「実はな、あの変のとき、頼まれたんだ。長屋王に謀反の疑いあり、って言えってな。それで出世ってわけよ」
子虫「なんだって!長屋王さまが自害に追い込まれたのは、テメエのしわざってことか。許せねえ!」
長屋王に目をかけられていた子虫は、王を陥れながらものうのうと出世している東人を許すはずがなかった。手にしていた刀を抜き、主の敵討ちを果たしたのである。正史『続日本紀』が「誣告」と表記しているからには、やはり冤罪事件だったのだろう。
ただ気になるのは、『日本霊異記』が伝える王の傷害事件である。僧侶の頭を象牙の笏(しゃく)で殴って、怪我を負わせたのだ。不作法な僧侶にも非はあるが、殴る必要はない。しかも身分ある者のとるべき態度でもない。
作り話のようにも思えるが、火のない所に煙は立たぬ。その証拠は、『続日本紀』が伝える、長屋王宅を囲み糾問したメンバーである。舎人親王、新田部親王、藤原武智麻呂、藤原宇合、つまり主要閣僚の名前を見ることができる。
どうやら長屋王は孤立していたらしい。謀反とまではゆかぬとも、何らかの尊大でタカビーな態度が周囲の反感を買っていた可能性はある。長屋王家木簡が示すような豪勢な生活をしていたことが問題視されたのだろうか。
人の評価は簡単にはできぬものだ。人は死んで評価が定まるというが、なかなかどうして、真の評価など神ならぬ人にはできない。長屋王は悪くない。悲劇の人だ。良い人ゆえに陥れられたのだ。本当にそうか?
人は良いか悪いかの二つに一つではない。良い面もあれば、「おいおい」と思わせる面を合わせ持つ、それが長屋王であり、それが一般の人であり、私自身でもある。
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