大河『真田丸』では、哀川翔が後藤又兵衛を演じているが、今のところ少し登場しただけだ。クライマックスとなる大阪の陣では、彼の武勇と知略がどのように描かれるだろうか。
2年前の『軍師官兵衛』では、塚本高史の又兵衛が、岡田准一の官兵衛の意を体して大活躍した。しかし、官兵衛が関ケ原の戦いから数年で没してしまうため、当然ながら大坂の陣のシーンはなかった。
とすれば、これら2作品で幼少期からその死までが描かれ、架空大河『後藤又兵衛』が完結することとなる。哀川翔は又兵衛の命日である5月6日に、菩提寺である多聞寺(加西市)の法要に参列し、迫真の演技を誓ったという。楽しみだ。
鳥取市新品治町の景福寺に「後藤又兵衛基次と妻子の墓」がある。
又兵衛は官兵衛を親のように慕っていたが、官兵衛の子の長政とは、まったくウマが合わなかった。官兵衛死後の慶長十一年(1606)、又兵衛は黒田家を出奔して、故郷の播磨へ帰ってしまう。
そして、播磨を治めていた池田輝政の世話になって、池田家中の三浦氏の女を室に迎えた。慶長十八年(1613)には、後に為勝と名乗る男児が誕生した。
しかし、又兵衛を許せぬ長政が、「奉公構(ほうこうかまえ)」という他家に仕官できなくする仕打ちをしたため、池田家を離れることとなる。そして、又兵衛は大坂の陣へと向かうのである。説明板を読んでみよう。
大阪城の軍略会議に真田幸村、木村重成と共に参画した、豪傑、後藤又兵衛は豊臣方として大阪夏の陣、小松山の合戦にて元和元年五月六日勇戦奮闘して遂に戦死す。
遺髪を胸に納めた夫人は一子為勝(当時二才)を連れて岡山の実家、三浦家に落ちついた。其の後寛永九年岡山城主池田光仲公、因伯二州(鳥取県)を領するに依り、城代家老の荒尾嵩就もこれに従い鳥取に移る。
荒尾家の菩提寺である景福寺も亦当地に移った。池田公の家臣、三浦家と共に後藤一族もこれに従う。当寺を後藤家の菩提所として初めて当墓地内に又兵衛の遺髪を埋む。其の後子孫相継いで九代までの墓が現存する。
右 仙洞院保年寿延大姉 夫人
中央 西照院夏安道蓮禅定門 又兵衛
左 桂雲善香居士 為勝
瑞松山 景福寺
そういうわけで鳥取に後藤又兵衛の墓があるのだが、中津市耶馬溪町大字金吉にも市指定史跡の「後藤又兵衛の墓」があるし、伊予市宮下南組にも市指定史跡の「後藤又兵衛基次公菩提所」がある。それだけ又兵衛は人気があるということなのだろう。
最近は二次元の世界で、戦国武将がとてつもなくイケメンに描かれている。んなわけねえだろというくらいに。いっぽう、三次元の世界では戦国武将の着ぐるみ化も進行中である。黒田官兵衛は「かんべえくん」(姫路市)、真田幸村(信繁)は「ゆきむらさま」(九度山町)、そして後藤又兵衛は「またべえくん」(加西市)という具合だ。
いっそのこと、「出世大名家康くん」(浜松市)と「ゆきむらさま」&「またべえくん」がバトルする、という企画「大坂ゆるゆるの陣」はどうだろうか。だが、「ゆきむらさま」と「またべえくん」が死なずに終わるという、とっておきのオチを考えなくては採用されないだろう。
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