「めざせ!世界遺産」 各地の自治体が懸命にPRしている。長崎県は今、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の平成30年度の登録を目標としている。イコモスが「禁教期に焦点を当てるべき」と指導したことから、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」から今の名称に変更し、今月26日付けで暫定版推薦書をユネスコに提出した。
構成資産のトップに挙げられているのは「原城跡」である。史上名高い「島原の乱」の舞台、イコモスの調査員も現地視察した重要な史跡である。今日は、この原城で戦死した武士の墓を見つけたので報告する。
鳥取市新品治町の景福寺に「島原の乱で奮戦した鳥取藩士佐分利九之丞(さぶりきゅうのじょう)父子の墓」がある。手前が父の九之丞、左奥が四男成次(なりつぐ)、右奥が五男成興(なりおき)の墓碑である。
「島原の乱」は、若き日に歴史授業で重要語句として記憶された方も多かろう。しかし今、教科書では「島原・天草一揆」という表現が一般的だ。現地長崎でも、そう呼んでいる。
これは単にキリシタンの反乱というだけでなく、苛政に抵抗した百姓一揆という性格が濃いからだ。また、一揆の範囲は天草にも及ぶため、「島原・天草一揆」と表現するのである。
寛永十四年(1637)10月に一揆勢が蜂起、12月には3万7千人が原城にたてこもる。これに対し、幕府は西日本諸藩を中心に動員をかけ、最終的には計12万になったという。説明板を読んでみよう。
徳川幕府は、乱の鎮圧のため全国各藩に出兵を命じ、鳥取藩からも佐分利九之丞を筆頭に総勢八十八名が参陣しました。九之丞は四男成次、五男成興とともに原城に進軍し、勇猛果敢に戦いました。
この戦いで九之丞は、寛永十五年二月二十七日戦死、享年六十一歳。
九之丞の墓碑には、「前佐分利九之丞 吹岸紹剣居士 寛永十五年寅二月廿七日」と刻まれている。どのような状況で戦死したのだろうか。
戦いは熾烈を極めた。寛永十五年(1638)正月には幕府の総大将・板倉重昌が討死した。しかし、オランダの加勢もあって幕府軍も持ち直し、持久戦となる。2月27日に幕府軍が総攻撃をかけ、翌28日に原城が陥落した。
九之丞は原城総攻撃の際に討死したのである。墓はふるさと鳥取だけではなく、原城本丸跡にもある。その墓の左側には天草四郎像、右側には天草四郎の墓がある。それは、義仲寺に木曾義仲と松尾芭蕉の墓が並び、「木曾殿と背中合わせの…」と詠まれたのを思い起こさせる。
地元の南有馬町(現在は南島原市)役場が発行した学習漫画『動乱原城史』には、次のように紹介されている。
天草四郎像に向かって右奥に、佐分利九之丞の墓碑があります。彼は因幡藩池田家の家臣で、乱のとき派遣され、細川勢に加わって戦いました。細川勢は二の丸から本丸を攻めるさい、本丸の石垣下で非常に多くの戦死者を出しました。彼も本丸をめざして進撃しているところを矢で射られてたおれました。そのとき、かたわらにあった自然石に、みずから刀で姓名を刻みつけたと言い伝えられています。三つならんでいるうちの中央がその石で、左右のものは彼の子孫が供養のためにたてたものです。
一揆勢の中心人物は、もちろん天草四郎である。四郎と隣り合わせに眠るのが九之丞である。一揆勢と幕府軍の犠牲者をそれぞれが代表するかのように、本丸に並んでいる。
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、世界遺産登録の有力候補となって、やがてユネスコから正式に認められるだろう。原城跡はその主要な構成資産である。
本丸跡に並ぶ天草四郎と佐分利九之丞。当然ながら主役は四郎のように思えるが、江戸時代に四郎の墓はここになく、四郎の像は巨匠・北村西望の作品だ。昔から変わらず本丸跡に眠っているのは九之丞なのである。
原城跡で滅びゆくキリシタンのロマンに浸るのもよい。だが九之丞のように、命令によって遠い戦場に赴き、奮闘にもかかわらず命を落とした武士のことも、どうか語り継いでいただきたい。