悪口なら、いない所で言ってくれ。自分への誹謗中傷は、知らなければ何ともないが、耳に入れば心穏やかに過ごせない。どこで聞いたか、情報通が親切にも教えてくれるからたまらない。腹が立つし落胆もしよう。報復してやろうか、そんな気持ちにもなるだろう。
本日の話題は、悪口が原因で殺人に発展した事件である。それに対する公儀のお裁きは如何に?
鳥取市栗谷町(くりたにちょう)の興禅寺の墓地に「臼井本覚之墓」がある。
『るろうに剣心』という漫画や映画が人気だった。主人公・緋村剣心が活躍するのは、明治時代初めである。しかし、有名な剣豪小説の多くは、江戸時代初めが舞台となっている。宮本武蔵や柳生十兵衛の活躍した時代だ。
本日の主人公、臼井本覚もその頃の人である。説明板を読んでみよう。
臼井正武は十太夫とよばれ、本覚と号した。鳥取藩きっての剣豪で、丹石流の使い手といわれる実戦兵法の達人だった。寛永8年(1631)11月28日、藩主池田忠雄の君命により、槍術をもって剛勇の名をひびかせた村山越中を、備中国成羽に迎え、名乗りをかけた駕龍を出したところを一刀のもとに討ち果した。
承応2年(1653)2月18日死去
臼井十太夫が村山越中を討ったことは分かる。上意討ちのようだが、その背景を知りたい。有本天浪編『古武士の堪忍袋』(自省堂、明治43)「臼井十太夫の卑怯」を読んでみた。
岡山藩主が池田忠雄公のころのこと、臼井十太夫と村山越中という藩士がいた。村山はたいへん口が悪く、臼井を誹謗中傷することたびたびであった。臼井は取り合わないでいるうち、村山は他の藩士とトラブルを起こし、相手を斬って出奔してしまった。
村山は加賀藩の前田利常公に仕えたが、ここでも臼井への誹謗を繰り返した。こんな輩だから、ここでも長続きせず浪人することとなった。
次に村山が転がり込んだのが、備中松山藩の池田長幸公の許である。それでも村山は変わらない。臼井への侮辱を平気で他人にしゃべるのだった。
ここに至って、もう臼井は見過ごすことができなかった。村山が駕籠に乗ってやってくるのを待ち、声を上げた。
臼井「それがし、貴殿を討ち果たすためにまいりました。」
村山の従者「はて、こちらは病人でございまして、お見違えではございませんか」
臼井「ウソは言わせぬ。村山ともあろう者がおじけづいたか」
こう言うと、駕籠から出ようとした村山を、一刀のもとに討ち果たしたのである。
これに怒ったのは村山の妻だ。夫の仇を討つことを幕府から命令してほしいと訴えた。
だが、それは認められず、臼井の主君、忠雄公も次のようにおっしゃった。
臼井が村山を殺したるは、充分堪忍して後の事なり、将軍家よりも然る仰ありたり。
ということで、臼井はおとがめなしとなり、寛永九年(1632)の池田家国替えに伴い鳥取藩士となった。剣豪として語り伝えられていることから考えると、剣の師範として尊敬されていたのだろう。
いっぽう、伝えられてはいないが、憤懣やるかたないのは、村山の妻だったのではないか。いくら世間様に迷惑をかけた夫だとはいえ、弁明の機会もなく殺されるのは納得がいかない。しかも加害者は不起訴処分だ。現代なら「検察審査会」に訴えることができるが、上意討ちでもあり、当時はどうすることもできなかっただろう。
臼井十太夫は、ならぬ堪忍するが堪忍の我慢強い男で、初めのうちは取り合うことがなかった。ところが、身に差し迫った危険があったわけでもないのに、計画的に相手を殺害したのはやり過ぎだろう。
だが、上意討ちの命を受け、確実に任務を遂行したのだから、常に冷静沈着なゴルゴ13のような人物だったのかもしれない。
剣豪の多い鳥取には、荒木又右衛門の墓がある。次回はついに1000本目の記事となるので、記念のエントリーは、日本三大仇討の一つ、御存じ「伊賀越え仇討」、又右衛門大立ち回りでお送りする。乞うご期待。
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