平成15年(2003)にNHK大河で『武蔵 MUSASHI』が放映された時、鳥取市が中心となって、「剣豪ロードプロジェクト」という観光キャンペーンを展開した。宮本武蔵ゆかりの播磨南部と美作東部、そして鳥取を結ぶ観光ルートをPRするためだ。このルートは、昔なら因幡街道、現代では国道29号や中国横断自動車道姫路鳥取線の沿線となる。
宮本武蔵には関係なさそうな鳥取市が、なぜ張りきったのか。それは、鳥取藩には名の知れた剣豪がいたからである。本ブログでは、これまで荒木又右衛門と臼井本覚を紹介した。今日は剣豪三人目として、羽生郷右衛門について書くこととしよう。
鳥取市新品治町の景福寺に「羽生郷右衛門の墓」がある。
剣豪は豪快な人というイメージがあるが、この墓石も実に豪快だ。まずは説明板を読んでみよう。
鳥取藩の偉大なる政治家
剣豪羽生郷右衛門(はぶごううえもん)挽臼の墓
禄高三百石で鳥取藩主池田光仲公に召し抱えられる。
延宝八年十一月十五日歿遺言により戒名を一外石心居士と名づく。
辞世の歌に「世の中をめぐりて因幡路をめぐりたらいて挽臼とする」がある。
政治家なのか剣豪なのかよく分からないが、豪快な雰囲気は伝わってくる。しかし、何か具体的なエピソードがないと面白くない。そこで、町田源太郎『日本奇人伝』(晴光館、明治42)を読んだ。
由井正雪が幕府転覆の陰謀を巡らせた事件で、郷右衛門は取調べを受けたが、その堂々とした態度に、逆に感心される始末。このことが鳥取藩主・池田光仲公の耳に入り、光仲公と郷右衛門は次のようなやり取りをしたという。
光仲公「其方は何か芸があるか」
郷右衛門「左様、拙者の芸と申せば、飯粒を糊にすることで御座る。恐れながら御前に於てお目に懸けたう存ずれば、竹の箆と糊板に飯を少し頂戴致したう御座る」
そう言って、見事に強力な糊を作って見せた。
光仲公「其方糊の一芸は感心致した。然し武芸に於ては何もこれなきや」
郷右衛門「はゝア、武芸の事で御座りまするか、元来武士たるの拙者、武芸を心得て居なければ、武士とは申されぬ。槍剣弓馬柔術砲術は勿論武士の嗜は何なりと一通りの心得は御座る」
またある時、道場破りがやってきたので、郷右衛門は「この石臼一組を中庭に運びたいので、すまないが片方持ってきてくれ」と言って、六七十貫もあろうかという大きな石臼を軽々と持って行った。道場破りに来た男も持ち上げようとしたがびくともせず、あきらめて逃げ出してしまった。
実は、郷右衛門の運んだ石臼は、中をくりぬいて軽くしてあったのだ。胆が据わって力もある。そのうえ、知恵が働くのだ。やはり剣豪は一筋縄ではいかぬ人物のようだ。
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