千円から一万円まで各種あるお札だが、原価は20円前後だという。考えてみれば、しょせん紙切れ。そんなものが、なぜ、ありがたく思えるのだろうか。
その不思議を解明する前に、とりあえず、お札は便利だ、と確認しておこう。
便利その1:軽い 便利その2:折りたためる 便利その3:数えやすい
この便利なお札を日本で初めて使い始めたのが、伊勢山田の人々である。紙幣ばら撒きのヘリコプターマネーが議論される今こそ、我が国の紙幣発祥の地で通貨の信用について考えるべきだろう。
伊勢市岩渕一丁目に「御師(おんし)邸跡」がある。土塀の一部しかないが、かつては立派な屋敷があったらしい。
伊勢神宮への崇敬の広がりは、「御師」を抜きに語ることはできないという。いったい、どのような役割を果たしたのだろうか。説明板を読んでみよう。
ここに残る土塀は、かつての御師邸の遺構です。
御師とは、古く大社寺に属する御祈祷師(おんいのりし)あるいは御祝詞師(おのっとし)が略されたものといわれています。伊勢での起源は明らかではありませんが、平安時代後期には存在していたようです。御師は年に一度、全国各地の檀家を回り、神宮の御札、伊勢暦や特産物などを配って庶民の伊勢信仰を広め、檀家が伊勢参りをする折には自らの屋敷に宿泊させ、数々のもてなしをしました。庶民のおかげ参りが盛んとなった江戸時代には、宇洽と山田で九〇〇軒余り(享保年間)の御師が活動していました。
寛保二年(一七四二)の『山田惣絵図』によると、この土塀は三日市兵部邸のものと推測されます。三日市兵部家は、山田のかつての自治組織・山田三方に役席を有した御師で、遠州浜松の松平家、奥州弘前の津軽家などを檀家に持っていました。
しかし、明治四年(一八七一)、明治政府による神宮制度の改革で御師は廃止され、数ある御師邸もほぼ失われてしまいました。御師邸の遺構が市内に数えるほどしかないなかで、この土塀は、かつての御師邸の敷地に現存する貴重な遺構なのです。
平成二十年三月 伊勢市
御師は、旅行代理店のような役割を果たし、地方の人々を伊勢へ伊勢へと導いたのだ。布教の際に「伊勢への道中、銀子(ぎんす)をたくさん持っていては、あぶのうございます。私がお預かりいたしましょう。いや、御心配召されるな。代わりにお渡しするこの『山田羽書(はがき)』は、伊勢でのお買い物の際に、お品物と交換できます。軽くて荷物にならず、しかも銀子と同じように使えるのです。それでは、伊勢でお待ちしておりますぞ」と言った、と私は想像する。
我が国最古、世界でも二番目という紙幣「山田羽書」は、御師が信者に対して銀貨の預り証として発行したことから始まるらしい。慶長十五年(1610)のものが現存最古で、日本銀行が所蔵している。
銀を預かった代わりに紙を渡しても、納得してもらえたのは、伊勢商人の経済力が知れ渡っていたからだ。「三日市兵部家は、山田のかつての自治組織・山田三方に役席を有した御師」だという。「山田三方」とは商人の自治組織である。御師と商人、そして信仰と商売は密接に結びついていた。
伊勢市吹上二丁目に「山田奉行所跡」の碑がある。昭和61年までは、東30mの地点にあったと記されている。
山田奉行は遠国奉行の一つである。ここに奉行所があったのかと思えば、碑の向こうに写る説明板には「山田奉行公事(くじ)屋敷跡」とある。詳しい事を読んでみよう。
所在 伊勢市吹上二丁目お屋敷
山田奉行の創始は、徳川家康が江戸に幕府を開いた慶長八年(一六〇三)にさかのぼります。この年、長野内蔵允友秀が派遣され、このあと、明治維新まで四十八代、その治政は二百六十余年に及びました。
初期の奉行は、伊勢の国奉行もしくは四日市代官が山田奉行を兼務しましたから、山田市内に下代を置いて、その役邸で公事を行いました。このため、市内には、ほかにも役所の名を冠した地名が残されています。「お屋敷」の名で呼ばれるこの公事屋敷跡は、六代岡田伊勢守善同が、寛永七年(一六三〇)に新設した役所跡です。
その後、花房志摩守幸次が山田奉行専任となると、現在の御園町小林に奉行所を建設、寛永十五年(一六三八)、有滝浦にあった船蔵や同心屋敷を、そこに移転しました。このとき、吹上二丁目の公事屋敷の機能も移されましたが、しばらくはそのまま使われたとも伝えられています。
吹上二丁目の公事屋敷跡は、今も「お屋敷」と呼ばれ、また、かつてその鎮守社であった「お屋敷稲荷」(北北東へ一三〇メートル)は、今も多くの人の信仰を集めています。
伊勢市教育委員会
山田奉行所は最初、現在の伊勢市有滝町(有滝町民会館)にあった。吹上の公事屋敷は、市街地で実務を行う出張所であった。やがて奉行所は、「山田奉行所記念館」近くの伊勢市御薗町小林の地に移転することとなる。
江戸時代を通じて48名の旗本が山田奉行に就いた。6代岡田善同から7代花房幸次の頃に吹上の公事屋敷は機能していた。歴代奉行で最も有名なのが18代奉行の大岡越前(当時は能登守)である。大岡裁きは伊勢でも行われたのだろうか。
さて、我が国最古の紙幣「山田羽書」は、山田の自治組織である山田三方会合所(伊勢市一之木)が発行していたが、寛政の改革で、幕府すなわち山田奉行所の管理下に置かれた。このことにより商人の都合による乱発が防がれ、通貨供給量が安定することとなった。
伊勢市河崎二丁目に「河崎の環濠遺跡」がある。下の写真が、かつての環濠に架かる橋であり、ここを道なりに進むと上の写真のような歴史的景観がある。
河崎は環濠に囲まれた商人の街で、中央を流れる勢多川の水運により繁栄していた。説明板を読んでみよう。
河崎の町は、長享年間(1487~89)に北条氏の遺臣、左衛門太夫宗次が移住したことにはじまると考えられます。
勢田川の自然堤防上に立地し、周囲を濠で囲み、主要な入口には惣門を設けていました。
環濠は町を自衛するために造られ、河崎は物資の集散する商港として栄えるようになりました。また、環濠の役割は防御のためだけでなく、排水、潅漑用水、洪水時の遊水池的機能も併せ持っていました。
その範囲は、左の絵図に明らかなように向河崎(勢田川右岸)まで及んでいましたが、現在では暗渠となったり埋め立てられたりして、わずかに垣間見ることができるのみです。
旧環濠内には、切妻妻入りの町家や蔵が川岸に沿って建ち並び、かつての河崎の町の繁栄を示す歴史的風景を今に伝えています。
平成24年3月 伊勢市教育委員会
ここ河崎の商人は、「山田羽書」が山田奉行所の管理下となっても、紙幣発行の実務を行っていた。日本最古の紙幣はその後も使い続けられ、明治を迎えることとなる。長期間にわたって使用された理由は、山田奉行所の適切な通貨管理だけでなく、伊勢商人が経済力を背景として金銀との交換を保証したことにある。
近代日本では国家が通貨発行を独占するようになり、昭和初めまでは、紙幣額面と同額の金貨と交換することを保証した兌換紙幣が発行されていた。紙幣が紙切れでないことは、ゴールドという世界中が認める価値が保証してくれた。
しかし、現在は不換紙幣、金貨には交換できない。ならば、なぜ紙切れだと思わないのか。それは、日本の金融政策が信用されているからである。一万円札で確実に一万円の価値ある買い物ができるからである。
さて、インフレ政策が功を奏しないが、日銀はどうする? ヘリマネに踏み切るのか? これまで日本が営々と築き上げてきた「信用」は、地に落ちないのか? 400年超の歴史を誇る我が国の紙幣を、見向きもされない紙切れにしてはならない。微笑む黒田総裁が考えている次の一手とは何だろうか。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。