日本維新の会は「道州制」の導入に積極的で、今月2日に「道州制への移行のための改革基本法案」を参議院に提出した。この法案の第5条3項は、次のような条文である。
道州の境界は、従来の都道府県の境界と異なるものとすることを妨げないものとする。
ということは、これまで見たこともないような形の区域が生まれる可能性があるのだ。法案提出は維新の会のパフォーマンスの要素が強いが、政治は生き物だから、どうなるか分からない。
伊勢市岩渕二丁目に「度會府廳跡」と刻まれた碑がある。難読である。
すぐそばに説明板があるので、どのような史跡か知ることができる。読んでみよう。
度会(わたらい)府庁跡
所在 伊勢市岩渕(いわぶち)二丁目
慶応三年(一八六七)江戸幕府は、朝廷に大政を奉還しました。
同四年七月、度会府が設置され、橋本実梁(さねやな)が度会府知事となり、小林(おはやし)村の旧山田奉行所に着任しました。あわせて宇治会合・山田三方会合の自治体も解体されました。
翌明治二年(一八六九)八月、度会府は度会県と改称されました。
三年六月、県庁舎は一之木町の山田三方会合所から、箕曲(みの)町(現在地・岩渕二丁目)の新築庁舎に移りました。敷地は一万坪(三三,〇〇〇平方メートル)ありました。
明治四年十一月には、新度会県の発足となり、一志・飯高(いいたか)・飯野(いいの)・多気(たき)・度会(わたらい)・答志(とうし)・英虞(あご)・南牟婁(むろ)・北牟婁の九郡を所管し、北の安濃津県とともに、三重県を二分しました。
明治九年(一八七六)四月、三重県(安濃津県から改称)と合併することになり、度会県の歴史は幕を閉じました。
平成二十四年三月 伊勢市教育委員会
今年は今の三重県が成立して140周年になる。4月には「県政140周年記念イベント」が行われたそうだ。どこの県もそうだが、明治維新直後からしばらくは合併が繰り返され、区域や県名が目まぐるしく移り変わった。
説明文中の度会府、度会県、安濃津県は、三重県内にかつてあった行政組織である。順を追って説明しよう。
大政奉還により幕府の領地は朝廷の直轄地となる。伊勢を中心とした直轄地を管轄した行政機関が、慶応四年(明治元年)設置の「度会府」で、庁舎は旧山田奉行所(伊勢市御薗町小林)に置かれた。同年中に庁舎は旧山田三方会合所(伊勢市一之木)に移転した。
府知事として着任したのは、橋本実梁という元尊攘派の公家である。戊辰戦争では東海道鎮撫総督として西郷隆盛を率いて江戸城に入城し、無血開城を成し遂げた。
明治二年に、「府」が東京・京都・大阪の大都市に限られたことから、「度会県」に改称された。知事(後に権令)は引き続き橋本実梁が務めた。明治三年には、庁舎が写真の地に新築されている。ということは、ここにあったのは「度会府庁」ではなく、「度会県庁」ということになる。
明治四年には第一次府県統合により、現在の三重県域が北の「安濃津県」と南の「度会県」に整理された。明治五年に「安濃津県」は「三重県」に改称される。そして、明治九年の第二次府県統合により、度会県は統合されて現在の三重県が成立することとなる。
橋本権令が退官した明治五年以後は、参事の安岡良亮、権参事の下山尚、権令の久保断三が首長の責務を果たした。安岡良亮は後に熊本県令となり、明治九年の神風連の乱に巻き込まれて亡くなる。下山尚は、慶応二年に坂本龍馬と大政奉還について語り合っている。久保断三は、安政四年に吉田松陰が継いだ松下村塾の実務を取り仕切っている。度会府・度会県の首長は、綺羅星の如く幕末維新に名を連ねる人々であった。
さて、現在の道州制構想で、三重県はどうなるのか。近畿地方でありながら中京圏との結びつきが強い。ただし、四日市のあたりは名古屋との結びつきが強いが、伊勢志摩は大阪からの客も多い。
とすれば、旧安濃津県は名古屋と一緒に、旧度会県は大阪と一緒にという選択肢もありうる。なにせ、「道州の境界は、従来の都道府県の境界と異なるものとすることを妨げない」のだから。
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