世界最大ともいわれる「仁徳天皇陵」は、工期15年8か月、延べ作業員680万7千人、総工費796億円だそうだ。そんな試算を、昭和60年に大林組が「季刊大林」No.20で発表した。
仁徳陵の築造された5世紀前半は、超巨大古墳の時代で、他に河内では応神陵、履中陵、吉備では造山古墳と、大規模な公共事業が展開された。今、列記した古墳は巨大墳墓全国1~4位、すべて前方後円墳である。
今日は、そこまでは大きくないが、地域最大の帆立貝式古墳をレポートする。
三次市糸井町に「糸井大塚古墳」がある。広島県指定の史跡である。
柿の木は古墳に関係ないが、季節の彩りを添えるアクセントとなっている。航空写真で見ると、帆立貝の形と墳丘を取り巻く帯状の土地がよく分かる。説明板があるので、読んでみよう。
【遺跡の概要】
古墳がある糸井町は、三次市の南東部に位置し、町の東側に北流する美波羅川がつくりあげた沖積地と河岸段丘及び小丘陵からなり、この小丘陵上に多数の古墳群があり、県内有数の古墳密集地となっています。
この中に、帆立貝の形に似た古墳の規模では、周囲の溝を含め本古墳が県内最大級で古墳群の中核となっています。
古墳は、全長65m、円丘部径56m、高さ8~10m、方形部幅19~20m、同部高さ(推定)3mの帆立貝式古墳で、幅30mの溝が廻っており、周溝を含めた規模は100m以上になります。
墳丘の状況は、斜面に河原石が散在していることから葺石と考えられ埴輪片も出土しています。埴輪は、円筒埴輪と方形部付近で家形埴輪が採取されていますが、須恵質を含まない等から、この古墳の造られた時期は5世紀前半と考えられています。
周溝は、現在の水田の畦畔によく残っており、墳丘を中心にして円形状になっています。幅は約30mありますが、第2号古墳との間は狭くなり変形しています。
被葬者が埋葬された施設は発掘調査が未実施のため、明らかではありません。
平成22年3月1日 三次市教育委員会
墳丘は整備されており、葺石と思われる石が確認できる。築造当時は輝くばかりの白さだったろう。着陸したUFOに見えたかもしれ…いや、それはなかったろう。
仁徳陵もそうだが古墳の周囲には、「周濠」という堀がある。その幅が狭い場合には「周溝」という。考古学者の末永雅雄は、航空写真による古墳観察を提唱し、「周庭帯」という墳丘を取り巻く帯状の土地の存在に着目した。
糸井大塚においては、周庭帯が周溝によって区切られているように見える。周庭帯を含めると規模は100m以上になり、帆立貝式では県内最大級という。しかも、築造時期は5世紀前半、超巨大古墳の時代である。畿内の前方後円墳に対して、三次地方の帆立貝式古墳。墳形は異なれど、何らかの影響が及ぶ関係にあったことが想像される。
古墳が巨大化した5世紀は、イノベーションの時代だった。技術革新によって人々の生活が変化し、社会の発展が見られた。大阪府立近つ飛鳥博物館で昨年、「馬がやってきたころ 古墳時代の文明開化」という企画展があった。まさに今日話題にしている時代である。
その展覧会では、馬の渡来、U字型刃先の鍬、曲刃の鎌、鋲留の甲冑、須恵器の生産、かまどの普及などが紹介されていた。古墳築造に関する土木技術も向上したのではないか。展覧会のパンフは、古墳時代の中ごろは「明治の文明開化にも勝るとも劣らない変革の時代だった」と指摘している。
国道375号からもよく見える糸井大塚は、おそらく、この地方に新時代の到来を告げる象徴だったろう。中国山地は古代から製鉄がさかんだったから、この古墳の築造でも、最先端のU字型刃先の鍬が使われたのかもしれない。
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