報道によると今月4日、忍者姿の約100人が、歌舞伎町や千駄ケ谷などを練り歩くというイベントがあったという。忍者といえば伊賀に甲賀。そこの観光協会が東京からの観光客を呼び込むためにPRしたというわけだ。
コスプレまでしたいくらいに忍者に興味のある方に、ぜひお読みいただきたのは、「愉快なはずだよ忍者号」という記事だ。忍者を統率していた服部半蔵のふるさと伊賀を紹介している。
新宿区若葉二丁目の西念寺に「服部半蔵の墓」があり、区指定史跡となっている。
『忍者ハットリくん』のモチーフが服部半蔵であることは、容易に想像できる。しかし、半蔵にどのような事績があるのか、と問われて、どれほどの人が答えられるだろうか。
NHK大河ドラマ『真田丸』第5話「窮地」で神君伊賀越が描かれた。窮地に陥った家康を手引きして、三河への血路を開いたのが半蔵であった。演じたのは浜谷健司、お笑いのハマカーンの人である。このシーンで、浜谷演じる半蔵は笑いを取らなかったが、内野聖陽演じる家康は、逃げろや逃げろの大慌てぶりが大ウケだった。
半蔵の事績は、神君伊賀越だけではない。説明板を読んでみよう。
服部半蔵(一五四二~九六)は、本名を正成といい、徳川家康の三河以来の旧臣で、家康十六神将の一人に数えられる武将である。
「鬼の半蔵」として知られ、元亀三年(一五七二)三方ヶ原の戦い、天正十八年(一五九〇)小田原攻めで功をあげ知行八千石を賜り、同年の家康の入府後は、江戸城西門近くに居を構え、城の警備等にあたった。半蔵門の名は彼の名に由来する。
半蔵は、天正七年(一五七九)家康の長男信康が切腹する際介錯役を命じられた。しかし、これを果たせず、晩年、信康の菩提をとむらうため麹町清水谷に庵を建て、西念と号し、仏門に帰依した。
文禄二年(一五九三)には家康から寺院を建立するよう内命をうけたが、慶長元年(一五九六)十一月、五十五歳で没した。
西念寺は、半蔵の没後完成し、寛永十一年(一六三四)江戸城の外堀拡張・新設の際現在地に移転したものである。
平成十七年二月 新宿区教育委員会
まず、基本的な誤解を解いておきたい。服部半蔵は忍装束(しのびしょうぞく)をまとった忍者ではない。上記経歴にあるように、徳川十六神将の一人に数えられる武将である。地下鉄路線や駅名でよく知られる「半蔵門」も上記のとおり、ゆかりがある。
ちょうど一年前の12月9日にNHK『歴史秘話ヒストリア』で「転職忍者ハットリ君の冒険~家康の“頼れる家臣”服部半蔵~」が放映された。そこで描かれたエピソードの中で、もっとも心打たれたのは、家康の長男・信康との関係である。番組でも紹介された史書『改正三河後風土記』の原文を読むこととしよう。
信康君には、御腹めさるべきにさだまり、九月十五日、天方(あまかた)山城守通経(みちつね)、服部半蔵正成、二股の城に御使し仰を伝ふ。信康君両人に向はせ給ひ「今更何事をか申べきにあらずといへども、我謀反して勝頼に一味するといふ事はさらに思ひもかけぬ事なり。此事のみは我が死後にも父上へ汝等よく/\聞て上てくれよ」と涙にむせび給へば、山城守半蔵も「其儀は某等一身にかへて申上べし」と申上れば、信康君もいと嬉しげに打笑給ひ「今は此世に思ひおく事なし」と仰られ、いさぎよく御腹めされ「半蔵、馴染なれば介錯たのむ」と仰ある。仰(あふぎ)御姿見上るより、鬼と呼ばれし半蔵もあまりの御傷(いた)はしさに伏沈み、涙に咽(むせ)びて手も出しやらず。山城守、「手間取ては御苦痛の程も恐入候。某御免かふむらん」とて御介錯をつとむ。(此時の刀は村正なりとぞ)
織田信長は、家康の長男・信康が武田勝頼と内通していると激怒し、信康に切腹を命じた。天正七年(1579)9月15日、天方山城守と服部半蔵が二俣城に行き、そのことを伝えた。信康は二人に向かって「今さら何も言ってもしかたないが、私が謀反して武田氏に通じたというのは、まったくの事実無根だ。私が死んでも、この事だけは、よくよく父上に申し上げてくれよ」と涙にむせぶ。山城守と半蔵が「我ら、この身にかえてもお伝えいたします」と申し上げると、信康はうれしそうに笑って「もうこの世に思い残すことはない。半蔵、お前は昔から俺の面倒をよく見てくれた。介錯を頼むぞ」と言い、いさぎよく切腹された。その姿を見て、鬼とまで呼ばれた半蔵も、あまりの気の毒さにむせび泣き、介錯できないでいた。この様子を見た山城守は「手間取っては苦痛が長引きましょう。御免!」と介錯をつとめた。(その刀は村正だったという)
服部半蔵の墓のすぐそばに「岡崎三郎信康供養塔」がある。家康の長男・信康の供養塔である。こちらも区指定史跡となっている。二俣城で生害した信康の墓「信康廟」は、浜松市天竜区二俣町二俣の信康山清瀧寺にある。
主君を救うことができず無念の思いをした半蔵は、亡骸から遺髪を切り取り、後々までも信康の菩提を弔った。東京にある供養塔は、半蔵が文禄二年(1593)に建立したものである。
半蔵の死後に始まる江戸時代は、パクス・ロマーナをもじって「パクス・トクガワーナ」とも呼ばれる平和の時代だった。そこに至る道程には、信康そして半蔵のように、無念の思いを抱いていた人がいた。そのことを私たちは忘れてはならない。平和は尊い犠牲の上に成り立っている。
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