「さらし首」という刑罰は、明治12年太政官布告第1号で廃止されるまで存在した。来年は明治維新から150年で、我が国の近代化が大いに顕彰されるだろう。刑罰も近代化の流れの中で、残酷な刑は次第に改められいく。これがその布告だ。
凡梟示ノ刑ヲ廃シ其罪梟示ニ該ル者ハ一体ニ斬ニ処ス
「梟示(きょうじ)」というのが「さらし首」のことで、これを廃止し、「斬首」に統一するというのだ。ちなみに「斬首」も、明治15年施行の刑法により「絞首」に統一された。
このような話題はあまり気持ちのいいものではないが、戦乱において、勝者が敗者の首をさらすことはいくらでもあった。勝者が自らの強さや正しさを誇るためである。
維新の魁と呼ばれる天誅組も、五條代官所を襲撃し、代官・鈴木源内をさらし首にしている。その様子は絵として残されており、ネット上で閲覧することができる。
早稲田大学図書館は所蔵する古典籍をデータベース化して公開している。「井沢宜庵先生画賛」がその絵で、天誅組の変を伝える貴重な史料である。素朴なタッチでグロテスクではないが、確かに血のついた生首と、志士姿の宜庵自身が描かれている。
五條市本町一丁目に「井澤宜庵(いざわぎあん)宅趾」がある。ここにあった家の主人が、くだんの絵を描いた人物である。
地元以外ではあまり知られていない人物だ。説明板を読んでみよう。
井澤宜庵は文政六年(一八二三)に紀伊国伊都郡に生まれ、今の五條小学校のあたりで医者をしていた。天誅組には軍医として参加し、高取城攻めで負傷した吉村寅太郎の手当てもした。その丁寧な治療により、大将の中山忠光から褒美として刀を贈られたという。
天誅組は文久三年(1863)8月17日に鈴木代官を血祭りに上げたものの、直後に朝廷内のクーデターにより立場が逆転する。形勢を挽回するべく高取城を攻撃したが、この時、味方の誤射で総裁・吉村寅太郎が負傷した。その治療に当たった軍医が宜庵であった。
天誅組は十津川に逃げ込むが、次第に追い詰められ隊士の数も減っていく。宜庵が本隊とはぐれたのは伯母峰峠(川上村と上北山村の境)だという。その後、宜庵はどうなったのか…。
五條市本町一丁目の常楽院に「井澤宜庵墓」がある。「井澤宜庵頌徳碑」とも表示されている。岡田禮以は妻である。
山深い吉野からどのように戻ったのか、しばらくは西吉野にある妻の実家筋に匿われていたらしい。その後、五條で自首して捕らえられる。説明板を読んでみよう。
井澤宜庵は天誅組では軍医として活躍したが、天誅組が鎮圧された後、五條で津藩の軍勢に降伏して捕らえられ、五條の人々の働きかけによっていったん釈放された。しかし今度は幕府の役人に捕らえられ、慶応元年(一八六五)京都六角の牢獄で毒殺された。享年四三歳。妻の禮以(れい)とともにここに眠る。
明治維新を目の前にした無念の死であった。やがて薩摩や長州が幕府を倒すことになるのだが、薩長に限らず各地に倒幕の思想は広まっていた。だからこそ、一気に維新が成し遂げられたのだろう。井澤宜庵も急進的な梅田雲浜(小浜藩出身)と親交があったという。
「井沢宜庵先生画賛」では、宜庵自身が何かを決意しているかのように、口を一文字に結んで生首のそばに立っている。賛には「天誅第一鋒」とある。私は国の在り方を正す先頭に立つ。維新の魁としての誇りが込められているのだ。明治31年に政府は、正五位を贈って宜庵の功績を称えた。
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