思えば不思議なのは、攘夷を主張する志士が樹立した明治新政府が、開国和親へとコペルニクス的に外交方針を転換したことだ。私たちの知る民主党の基地政策のように、政権に就いたら変節するということか。
開国和親なら、幕府の井伊大老が信念を持って取り組んだことだ。とすれば、新政府は旧幕府の外交政策を継続したことになる。幕末の志士らは幕府外交を「弱腰」と批判したそうだが、新政府は対等外交を堂々と展開したのか。
本日は新政府初の外交問題の処理について、ある武士の死を通して考える。
岡山市北区御津金川の七曲神社のふもとに「滝善三郎義烈碑」がある。皇紀2600年の昭和15年に建てられた。
事件はこうだ。慶応四年(1868)1月11日、神戸三宮を通りかかった岡山藩兵の隊列をフランス兵が横切った。これに端を発して、小競り合いから英仏米の神戸占拠にまで発展する。フランス兵に浅い傷を負った者はいたが、死者は出なかった。新政府の発足、神戸開港から1か月ほどでの対外危機「神戸事件」である。
過去にも同様に外国人が行列を乱した事件があった。生麦事件である。この時は薩摩藩士によるイギリス人1名殺害に対して、イギリス側から犯人の処刑と賠償金の支払いを要求されている。その後、ご存じのとおり薩英戦争にまで発展したが、結局、賠償金は支払うものの、犯人は「行方不明」ということにして難局を切り抜けた。さて、その薩摩藩も主要メンバーである新政府は、神戸事件にどのように対処するのだろうか。
1月15日、新政府は諸外国に対し、幕府ではなく天皇の政府が日本を代表することを宣言し、開国和親の方針を表明する。本来ならば新政府発足に際して、諸外国に対してこうした宣言がなされるべきであったが、この時までできていなかった。
交渉相手が明確になったので、外国側は謝罪と再発防止の表明のほか、責任者の処刑について新政府に要求してきた。これに対し、処罰が重すぎるという意見が出たものの、結局は隊列の責任者である備前藩士、滝善三郎が文字通り詰腹を切ることとなった。
2月9日、関係国外交官の前で滝善三郎は切腹した。その直前に次のように挨拶したという。篠岡八郎記述『瀧善三郎自裁之記』(『七曲神社と金川』所収)より
去月十一日神戸に於て行列へ外国人共理不尽に衝突したるに付吾が国法に違ふを以て兵刃を加え続て発砲を号令せしは即拙者なり、吾は遠国の者にて、朝廷如斯外国人を鄭重に御取扱に相成ること全く承知せず、今過日の罪科を償ふ為め此に割腹して死す、御見証を乞う。
私は田舎者ですので、朝廷がこのように外国人を丁重にお取扱いなさるとは、まったく知りませんでした。そうなのだ。いつの間にか「攘夷」の時代は終わっていたのだ。だから島崎藤村は『夜明け前』で、善三郎に対して次のような見方もあったことを紹介している。
世が世なら、善三郎は無礼な外夷を打ち懲らしたものとして、むしろお褒めにも預かるべき武士だと言うものがある。
新政府は、外交方針の場当たり的な転換と一人の武士の理不尽な死で、問題を収束させることに成功した。これで、幕府の外交を「弱腰」と批判できるだろうか。善三郎の故郷に建てられた義烈碑は、彼の死について次のように刻んでいる。
其悲壮ナル光景ハ列座外人ノ胆ヲ奪ヒ、日本武士道ノ精華ヲ発揮セリ。而シテ君ノ一死能ク維新最初ノ国際問題ヲ解決シ、以テ宸襟ヲ安ンシ奉ルヲ得タリ。
間もなく明治維新150年を迎え、さまざまなイベントで盛り上がるだろう。だが、維新の成就はすべて薩摩と長州のおかげ、と思ってはならない。滝善三郎という岡山藩士の尊い命が奪われたことも記憶しておくべきだろう。「一将功成りて万骨枯る」こそ、維新の実態なのである。
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