歴史用語であった「上皇」が現代に復活する。「上皇后」という呼称もできる。秋篠宮さまは「皇嗣殿下」と呼ばれる。有識者会議で皇室の在り方の方向性が固まったようだ。誠に喜ばしいことである。
しかし、肝心の皇位継承問題は棚上げされたままで、何ら議論は深まっていない。女系天皇とか女性宮家とか、喫緊の課題であるというのに。保守層の中でもウルトラに属する人々は、旧宮家の皇籍復帰を求めている。あくまでも男系を維持したいらしい。
旧宮家の方々は伏見宮家の流れに属する。その初代が栄仁(よしひと)親王で父は崇光天皇である。崇光天皇の曽祖父を伏見天皇という。伏見天皇も伏見宮栄仁親王も陵墓は伏見にある。伏見天皇は鎌倉後期の帝で、持明院統(後の北朝)に属する。
姫路市八代(やしろ)に「伝伏見天皇離宮址」と刻まれた碑がある。昭和5年に建てられた。「子爵榊原政春謹題」とあるから、揮毫したのは姫路藩主であった榊原家の方である。
天皇の離宮が京都にあれば驚かないが、播磨にあるのはなぜか。碑文によれば、ここ播磨の国衙領は、持明院統とのゆかりが深く、伏見宮家へと伝えられた。そして、次のような伝えがあることを紹介している。
東光寺記云伏見天皇播磨国御処分御巡幸之時以当寺為皇居有勅封之御事即離宮霊場也
東光寺は臨済宗妙心寺派に属し、伏見天皇を開基としている。寺伝によれば、伏見天皇は領地の播磨国にお出ましになったとき、東光寺の地に住まわれた。すなわち、離宮が置かれたことが寺の始まりだという。さらに、天皇と播磨には深いつながりがあるらしい。碑文を読んでみよう。
姫路記云正応中天皇賽国衙総社賜御歌於社人当時国府在庁大目小目刑部氏天皇内侍播磨局小目刑部俊衡女生尊円法親王伝云内侍薨干国府合祀小刑部神社
『姫路記』によれば、正応年間(1288~1293)に、伏見天皇は播磨の国衙に総社を祀り、お歌を賜った。当時、総社に奉仕する者に国府で大目少目を務める刑部(おさかべ)氏がいた。天皇の後宮に入った播磨内侍(はりまのないし)は、少目の刑部俊衡の娘に生まれた。『尊円法親王伝』によれば、内侍は国府で亡くなり、小刑部(おさかべ)神社に合祀された。
「おさかべ」神社は、姫路では長壁神社が知られており、播磨内侍ではなく、刑部親王とその王女の富姫を祀っている。もと城内にあった神社を、一般庶民が自由に参拝できるようにと城下に分祀したのが、姫路藩主の榊原政岑(まさみね)である。碑の題額を揮毫したのが、最も長く姫路藩主の座にあった酒井伯爵ではなく榊原子爵だったのは、そんなゆかりがあるからだろう。
では、伏見天皇と播磨をつなぐキーパーソン、播磨内侍の実像とは? 播磨内侍は、青蓮院流という書の流派の祖、尊円法親王の母である。そして、播磨内侍は三善俊衡の娘である。俊衡は西園寺家の家司を務めた官人で、当然京に在住していたと考えられる。
伏見天皇は、ほんとうに姫路に離宮を設けたのか。否。おそらくは、伏見天皇と播磨内侍、伏見宮家と播磨国衙領、そんな「伏見」と「播磨」のゆかりから生じた伝説であろう。物語としては、地方の娘が帝の寵愛を受けたとするほうが面白い。仁徳天皇と吉備の黒媛の故事もあるではないか。史実がほとんど分からぬ『直虎』がけっこう楽しめるように、伏見天皇伝説もドラマのネタとなりうる価値がある。
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