同じ暗殺されても、坂本龍馬は大人気だが、大久保利通はそうでもない。龍馬は「日本の夜明けぜよ」と語り、西郷どんは「敬天愛人」を座右の銘とした。なんと人間味あふれるリーダーであることか。これに対し、大久保には官僚的で冷徹なイメージが付きまとう。人気ある西郷どんを死に追いやっているからだろうか。恨みを買っての暗殺だったということか。今日は、大久保の暗殺をめぐるレポートである。
千代田区紀尾井町の清水谷公園に区指定有形文化財(歴史資料)の「贈右大臣大久保公哀悼碑」がある。暗殺から10年後の明治21年に建てられた。右大臣は死後に贈られた官職で、亡くなる前は内務卿として今の首相のような役割を果たしていた。
明治11年(1878)5月14日朝、三年町(現在の永田町一丁目)の自邸を馬車で出発し、明治天皇に謁見するため赤坂仮皇居(現在の赤坂御用地)に向かっていた。紀尾井坂を通りがかった時、突然、行く手をさえぎる者が現れた。加賀の島田一郎ら6名の刺客である。大久保は「待て!」とか「無礼者!」とか一喝したが、馬車から引きずり出され斬殺された。これを「紀尾井坂の変」という。
暗殺現場からずいぶん遠く、倉敷市林の五流尊瀧院に、暗殺の際に乗っていた「大久保参議乗用馬車」が保管されている。今は写真とは異なる場所に保管されている。馬車は英国製で、大久保の遺族が供養のために奉納したのだという。
大久保はなぜ殺されたのか。政府首班なのにSPの警護がなかった。そんな物理的な要因ではなく、刺客ら不平士族は、大久保政治の何に不満があったのだろうか。『古今珍文史』(問題社出版部)に掲載されている「島田一郎の斬奸状」の一部を抜粋しよう。
今其罪状を条挙する左の如し。
曰く、公議を杜絶し、民権を抑圧し、以て政事を私する。其罪一なり。
曰く、法令漫施、請託公行、恣に威福を張る。其罪二なり。
曰く、不急の土木を興し、無用の修飾を事とし、以て国財を徒費する。其罪三なり。
曰く、慷慨忠節の士を疎斥し、憂国敵愾の徒を嫌疑し、以て内乱を醸成する。其罪四なり。
曰く、外国交際の道を誤り、以て国権を失墜する。其罪五なり。
つまり、①民主的な政治をしていない!②官僚政治の弊害があらわれている!③ムダな公共工事が多い!④国の将来を思う人を排斥している!⑤外交に失敗している!要するに独裁政治だ、と怒っているのだ。
列挙した大久保政治の「罪状」がどれほど的を射ているかは疑問だが、時の政府に対する批判としては今も同工異曲である。しかし、話し合いによる政治を主張しているにもかかわらず、暗殺という暴力行為に及ぶのは、まったく矛盾しており、許されるものではない。それでも、革命の論理とはそういうものかもしれない。
今日から評価すると大久保政治は、官僚機構の整備と殖産興業により、日本の国力を増進させたと言えよう。盟友西郷どんとは対立することとなったが、漸進的で現実に即した政治を展開する力量は、維新の元勲では最高だ。明治維新150年を顕彰するなら、大久保の功績を再評価すべきだろう。
暗殺当日の早朝、自邸を訪ねてきた福島県令の山吉盛典に、殖産興業の必要性を語り、次のような思いを述べたという。山吉盛典「済世遺言」より
故に、此際勉めて、維新の盛意を貫徹せんとす。之を貫徹せんには、三十年を期するの素志なり。假りに之を三分し、明治元年より十年に至るを一期とす。兵事多くして則創業時間なり。十一年より、二十年に至るを第二期とす。第二期中は、最も肝要なる時間にして、内治を整へ民産を殖するは此時にあり。利通不肖と雖も、十分に内務の職を尽さん事を決心せり。二十一年より三十年に至るを第三期とす。三期の守成は、後進賢者の継承修飾するを待つものなり。利通の素志如斯(かくのごとし)。
昨年の西南戦争までは争いの多い創業期だった。今年から20年まではもっとも重要で、国内政治の仕組みを整え産業を興すため、私は全力で働くつもりだ。21年以降は安定期となるだろうから、その政治については後進に譲るつもりだ。
大久保利通は、我が国の現状と今後なすべきことが見えていた。必要な政治を行い、我が国を安定させたとの自負があった。明治維新は政治及び社会の大変革だから、混乱を避けることはできなかったろう。「創業は易く守成は難し」というが、大久保が活躍した創業期の政治は、決して易しいものではない。彼だからこそ成し得られたのである。
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