北方領土返還交渉は、「ウラジーミル、ようこそ」と温泉旅館で歓待した安倍首相の努力にもかかわらず、さっぱり進んでいない。日露双方が領有権を主張しているが、本当に返還されるべきはアイヌ民族ではないか。
我が国は移民国家ではないが、単一民族国家でもない。先住民であるアイヌ民族に対する収奪や同化政策を反省し、民族の誇りとアイデンティティに配慮した共存共栄の道を模索していくべきだろう。
根室市納沙布の北方館・望郷の家の前に「納沙布岬」と書かれた標柱がある。本当の納沙布岬はもう少し東の灯台のある場所で、そこが「本土最東端」でもある。
写真の標柱には「返せ北方領土」とも書かれていて、歯舞諸島の水晶島を望むことができる。我が国で作成される地図には、写真の海と同様に何らの境界もないのだが、実際には日露両国の厳然たる境界がある。
標柱の左に「横死七十一人之墓」と刻まれた墓碑がある。根室市指定文化財で「寛政の蜂起和人殉難墓碑」という。碑の側面には「文化九年歳在壬申四月建之」とあり、文化九年(1812)の建立と分かる。そして裏面には、次のように刻まれている。
寛政元年己酉夏五月此地凶悪蝦夷結党為賊事起乎不意士庶偶害者総七十一人也姓名記録別在官舎乎茲合葬建石
寛政元年(1879)五月のことである。この地の凶悪なアイヌが徒党を組んで、突然、武士や漁民を殺した。被害者は71人でその名簿は役所にある。ここに合葬して墓石を建てる。
和人の見解ではそういう理解で、文化財指定当初の名称は「寛政の乱和人殉難墓碑」だった。しかし「乱」とされた事件の実態は、アイヌにとってやむにやまれぬ「蜂起」であった。説明板には次のように記されている。
寛政元(一七八九)年五月、国後島とメナシ(現在の標津町付近)のアイヌの人々が、当時この地域の場所請負人であった飛騨屋久兵衛の支配人らに脅されて、僅かな報酬で労働を強いられ、やむなく蜂起し和人七十一人を殺害した。
松前藩は、ノッカマップ(根室半島オホーツク海側)にアイヌの人々を集め蜂起の指導者三十七人を処刑した。このできごとは、“寛政クナシリ・メナシアイヌ蜂起”と称されている。
和人による暴力を背景とした過酷な強制労働を強いられていたアイヌの人々の報復である。蜂起に対する処罰も凄まじいもので、我が国の民族問題を考えるうえで、忘れることのできない悲劇である。
アイヌを描いたよく知られた絵に蠣崎波響『夷酋列像』がある。あのエキゾチックで美しく、そして堂々と描かれたアイヌたちは、クナシリ・メナシの戦いを鎮圧する松前藩に協力した人々だという。和人対アイヌの単純な構図ではない。
責任の所在はどこか。第一にはアイヌを酷使した飛騨屋久兵衛であろう。飛騨屋は南飛騨の下呂の出身で、当時は四代目益郷という人物だった。事件後に松前藩によって請負場所をすべて取り上げられてしまう。第二には監督不行届きの松前藩であろう。現地でのトラブルに加え、ロシア人が進出の気配を見せていたことから、幕府は寛政十一年(1799)、東蝦夷地を収公することとした。
これ以後、アイヌの組織だった武力抵抗は見られなくなる。やがて同化政策が進んで、和人は自らの国を「単一民族国家」だと思うようになる。その幻想に惑わされないためにも、この和人殉難碑はいつまでも大切にしたいものである。
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