「酒を愛すること妻の如く、酒を惜しむこと銭の如し」と謳ったのは頼山陽先生である。先生の才能と酒のコラボレーションが、あのようなドラマチックな世界を生み出した。詩を作り酒を飲むことを表す「詩酒(ししゅ)」という熟語がある。まさに詩酒を山陽先生から受け継いだのが藤井竹外(ふじいちくがい)であった。
高槻市野見町に「藤井竹外詩碑」がある。ここは高槻城北大手門の内側に位置する「藤井竹外邸跡」である。詩碑は生誕170年を記念して昭和52年に建てられた。
藤井家は高槻藩の藩士であった。竹外とはどのような人物なのか。説明板を読んでみよう。
竹外は藩の教育機関である菁莪堂(せいがどう、九代藩主永井直進により設立)で学び、鉄砲術をはじめ武芸にも励んだといわれる。また、文武両道の素養を備え、青年期から頼山陽を師と仰ぎ詩作に傾倒した。旅を好み、酒をくんでは詩作に没頭し、七言絶句を得意としたため、「絶句の竹外」とも呼ばれたという。
感情が高まることで詩はできる。アルコールによってドーパミンが脳内に充満することで、眼前の風景が美しくなり、歴史の出来事が感慨深くなるのだろう。竹外が生きた時代は南朝が再評価が盛り上がっていた。滅び去った南朝と吉野の風景を思い重ねて、竹外は次のように詠じた。
「芳野懐古」
古陵松柏吼天飈
山寺尋春春寂寥
眉雪老僧時輟帚
落花深処説南朝古陵(こりょう)の松柏(しょうはく) 天飈(てんぴょう)に吼(ほ)ゆ
山寺(さんじ)春を尋ぬれば 春寂寥(せきりょう)
眉雪(びせつ)の老僧 時に帚(ほうき)を輟(とど)め
落花(らっか)深き処 南朝を説く
後醍醐天皇陵の木々が強い風で揺れ、音を立てている。
如意輪寺の桜も散って、さびしい春であることよ。
眉の白い老僧が庭を掃く手を止めて
花びらの散り敷くなかで、南朝の栄枯盛衰を聞かせてくれた。
これは竹外の代表作で、梁川星巌、河野鉄兜の作品と並んで「芳野三絶(よしのさんぜつ)」の一つに数えられている。本日紹介している詩碑には、地元を流れる淀川にちなんだ詩が刻まれている。花朝(かちょう)とは陰暦の二月の異名、澱水(でんすい)とは淀川の雅称である。「澱」には「よどむ」という意味があるから「淀」に通じるのだ。
「花朝下澱水」
桃花水暖送軽舟
背指孤鴻欲没頭
雪白比良山一角
春風猶未到江州「花朝澱水を下る」
桃花(とうか)水暖かにして軽舟(けいしゅう)を送る
背指(はいし)す孤鴻(ここう)没せんと欲するの頭(ほとり)
雪は白し比良山(ひらさん)の一角
春風(しゅんぷう)猶(なお)未だ江州(ごうしゅう)に到らず
桃の花咲き水ぬるむ二月に、淀川を船で下った。
振り返れば、大きな雁が遠い空の彼方に消え入ろうとしている。
遥か比良山の一角には、雪が残っているではないか。
春風はまだ、近江には届いてないらしい。
移ろいゆく季節と空間的な広がりを感じさせるとともに、近江八景の「堅田落雁」「比良暮雪」を詠み込んだ秀作である。川が主要な交通路であった頃は、今とは異なる風景が目に映っていたことだろう。比良山に残る雪もやがて消えゆく。さあ、春だ。よきかな、よきかな。
高槻市の対岸に位置する枚方市では、「蘇れ!!淀川の舟運」という観光イベントをしている。今年はすでに春季が終わり秋季の運行が予定されている。比良暮雪は無理だが、堅田落雁はお目にかかれるかもしれない。
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