俳句は世界一短い詩だと言われる。たった17文字で描かれる情景と、そこに込められた宇宙観。誰にでもできそうに思えて、なかなか秀句は作れない。奥の深い芸術なのである。
本日は「東の芭蕉、西の鬼貫」と、あの松尾芭蕉と並び称された俳人、上島鬼貫(うえしまおにつら)を紹介しよう。
伊丹市中央六丁目の墨染寺に「鬼貫の親子墓」がある。
左が親で右の小さいほうが子の墓かと思ったら違っていた。左の墓碑には「青岳利陽禅童子」と戒名が刻まれている。こちらが子の墓だ。右の墓が鬼貫の墓かと思ったら、そうではない。こちらは飛騨高山祭の屋台彫刻に超絶技巧を残した谷口与鹿(よろく)の墓だそうだ。では、鬼貫お父さんの墓はどこか。
気の毒なことに、お父さんは元禄十三年(1700)正月十五日に子の永太郎を亡くす。墓を建て「土に埋(うめ)て 子の咲(さく)花も ある事か」と、叶わぬ願いを詠んだ。
鬼貫は元文三年(1738)に大坂鰻谷で亡くなる。大阪市天王寺区六万体町の鳳林寺に墓がある。この時、伊丹にも分骨され、親子一緒の墓で眠ることとなった。親子墓の右側面には「仙林則翁居士」と鬼貫の戒名が刻まれている。
この鬼貫、いかめしい名前だが紀貫之を意識したネーミングだそうだ。小さい頃は竹松という名前だった。8歳の竹松ちゃんは「来い来いといへど蛍が飛んで行く」と詠んだというから可愛らしい。
松尾芭蕉の流れは蕉門と呼ばれ俳壇の主流を成していくが、鬼貫の歴史的評価は高くない。しかし、鬼貫の思想性の高さは今一度注目されてよいと思う。享保三年(1718)に著した『独(ひとり)ごと』(上巻)には、次のように記されている。
句を作るに、すがた詞をのみ工みにすれば、まことすくなし。只心を深く入て、姿ことばにかかはらぬこそこのましけれ。古歌にもあれ、古事にもあれ、ひたすら案じ探りて、句を作ると、おのづから心にうかぶ所を、用ゐるとのさかひならんか。
新しく作りたる句は、やがてふるくなるべし。只とこしなへに、古くもならず、又あたらしくもならぬをこそ、能句とはいひ侍るべくや。
連歌から生まれた俳句は、言葉遊びとして楽しまれるようになり、松永貞徳の貞門派や西山宗因の談林派が俳壇の主流を占めていた。この風潮を鬼貫は『まこと』がないと批判した。巧みな言い回しが秀句ではない。心のままに湧き出る言の葉こそ優れている。作品には不易と流行がある。古めかしくなくて新奇でもない句こそ、よくできた句なのだ。鬼貫は俳句を芸術に高めようとしたのである。
鬼貫の作品で今も人気があるのがコレだ。
によつぽりと秋の空なる不尽(ふじ)の山
行水の捨てどころなし虫の声
分かりやすく、そして、しみじみとする。日常の生活において、日常の言葉で感動を伝える。これが鬼貫の真骨頂であろう。東の芭蕉もええけど、西の鬼貫もなかなかいけまっせ!