日本史上、最強なのは藤原氏一族だと思う。飛鳥時代の藤原鎌足から昭和の近衛文麿に至るまで、高官を独占していた。政治史においてはそうかもしれないが、精神史においてはどうだろうか。
いかに後世に影響を与えたかという指標で評価すれば、楠木正成をはじめ楠公一族の右に出る一族はなかろう。江戸幕府を倒し天皇をいただく新政府を樹立したのも、天皇を神と見なし戦争へと駆り立てたのも、楠公一族を関係なしとしない。
伊丹市伊丹二丁目の本泉寺に「楠公一族の墓」がある。
墓石は3基あり、中央には「前三国守楠公之墓」、向かって右は「従四位上小楠公之墓」、左は「楠正貞墓」と刻まれている。
「前三国守楠公」とは、摂津・河内・和泉三国の守護を務めた大楠公・楠木正成である。「建武三丙子歳五月廿五日」「於摂州湊川戦死」とその死について記している。墓碑の右側面には「楠摂津守従五位上橘正季公」とも刻まれている。
「従四位上小楠公」とは、正成の子・正行である。「正平四己丑歳正月五日」「於河内国四条縄手戦死」とある。実際には正平三年に戦死しているが、古い本には正平四年との記述も散見される。
もう一基の「楠正貞」はよく分からない。この地にいた子孫が一族の供養塔を建立したのだろうか。江戸時代には既に建てられていたという。覆屋や菊水の玉垣などが整備されたのが昭和6年、そういう時代であった。
古人は「忠臣は孝子の門より出づ」と言った。忠臣を楠木正成が体現するなら、正行は孝子を代表するだろう。忠臣は即ち孝子、孝子は即ち忠臣なのである。楠公一族の墓は「忠孝一如」という歴史の推進力を象徴する史跡と見なすことができよう。
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