考えてみれば「古墳時代」というのは驚くべきネーミングだ。言うなれば「お墓時代」である。住人は幽霊だったのかなど、つまらぬことは言うまい。我が国における巨大墓の時代、それが古墳時代である。
お墓がステータスを表すのは、古墳時代も今も変わらない。うちのお墓の周りはみんな一段高く石を築いている。ピラミッドは言うに及ばす、天皇陵も日光の家康廟もすべてステータスと連動している。
総社市清音三因(みより)の歴史広場に「三因・峠古墳群」のうち峠1号墳、同2号墳、同3号墳がある。吉備を代表する群集墳である。
大地のエンボス加工であるかのように、こんもりと可愛らしい。千数百年前の昔からここにあるのではない。道路建設に伴い、北東方向から30mほど移設された。地域のランドマーク福山の西斜面に点在する212基の古墳群「三因千塚」の一部である。説明板を読んでみよう。
六世紀後半の吉備には、製塩や漁業を営む瀬戸内の島々にも、美作の山間の地にも、多数の小古墳が造られました。
南部の高梁川以東では、二〇〇基ちかくの円墳からなるこの清音村三因千塚が、典型かつ代表的な群集墳の一つとして、よく知られています。その南半の六七基からなる支群をとくに峠古墳群と称し、このたび西へ平行移動させたこの四基の古墳も含まれていました。
こうした小古墳の誕生はしだいに生産を伸ばした民衆が、財カを貯え、有カな家父長を中心とする家族集団を形成したことのあらわれです。ちょうどそのころ、大王権を確立しつつあった大和を中心とする政治勢カは、これら家父長層を直接に従えようとして、首長だけでなく彼らにも小古墳の築造を認めはじめたのです。
6世紀後半は古墳時代の終わりに近い。生産性が高まるとともに、庶民の中にも富裕層が形成される。多額納税者の気持ちをつかむのに腐心するのは、これまた古今東西の政権に共通だ。大和王権は小古墳の築造を認めることで、富裕層のステータスを保証したのである。
富裕層は政権と結びつきやすい。お友達にもなるだろう。友達関係ができれば様々なメリットがある。昔なら小古墳の築造の認可だったが、現代は国家戦略特区における獣医学部の新設認可である。群集墳の登場により、古墳時代は終末期へと向かっていく。安倍政権はもうすぐ内閣改造だが、いよいよ終末期に入ったのではあるまいか。