上田三四二は読売文学賞を受賞した『この世この生』で、西行は「地上一寸」浮き上がっている、と評した。花月にあこがれる西行の心が、その身を浮かせているというのだ。なかなか言い得て妙だと思う。
その西行が、怨霊と化した崇徳上皇の魂を鎮めに向かった。本日は崇徳上皇特集の最終回である。
坂出市青海町の青海神社から「西行法師の道」が始まる。
ここから崇徳上皇の白峰御陵に向かう1.34キロが西行ゆかりの道である。美しく整備されていて気持ちよく散策できそうだが、私は自転車で行ったので登っていない。白峯寺には後日、車で参拝した。
坂出市青海町の白峯寺境内の頓証寺殿(とんしょうじでん)の左に「西行法師石像」がある。文政の頃に「西行腰掛石」と伝えられる石上に安置したものだという。
この法師像を拝みに行くだけでも、古仏巡礼のような風雅な旅となる。説明板を読むと、法師が上皇の霊と交感しているようすが分かり、いっそう味わい深い。
西行
仁安元年神無月の比、西行法師四国修行の砌当山に詣でゝ負を橋の樹にかけ法施奉りけるに御廟震動して御製あり
松山や浪に流れてこし船の やがて空しくなりにけるかな
西行涙を流して御返歌に
よしや君昔の玉の床とても かゝらん後は何にかはせん
御納受もやありけむ度鳴動したりけるとなん
仁安元年(1166)十月の頃、西行法師は四国修行のとちゅう白峰山に参詣し、笈を橋のたもとの木にかけ、お経を読んで供養した。すると御廟が振動して、上皇のお歌が聞こえてきた。
松山の津に寄せる波とともに着けた舟がそのまま朽ち果てたように、私もまた都を離れたまま、むなしく生涯を終えることになったのだ。
法師は涙を流して歌をお返しした。
たとえ、かつて玉座にいらした方でも、このように亡くなられた後に、何ができましょう。怨霊となって恨みを晴らすなど、それこそ、むなしいことにございます。
上皇はこれを受け入れられたのであろう。御廟は鳴動して応えたということだ。
上田秋成の怪異譚『雨月物語』の「白峰」でも、同様な場面が描かれているが、こちらは仁安三年(1168)のこととされている。さらに上皇の霊が詠んだという「松山や…」の歌は、『山家集』(雑)に収録されている西行の歌である。鑑賞しよう。
讃岐に詣でゝ松山と申す所に院おはしましけむ古跡尋ねけれども形(かた)もなかりければ
松山の波に流れて来し舟のやがて空しく成りにけるかな白峰と申す所に御墓の侍りけるに参りて
よしや君昔の玉の床とてもかゝらぬ後は何にかはせむ
「空しく成りにけるかな」と慨嘆したのは西行である。ほんの4年ほど前なのに上皇が住まわれていた痕跡さえ残っていないとは。世の無常とはこういうことか。『山家集』では当然ながら、上皇の霊は何も語らない。
これをモチーフに怪異と鎮魂の物語として仕上げられたのが『雨月物語』であった。苔むした西行像を前にすると、何が真実なのか、さまざまに思いが巡る。おそらく諸行無常ということだけが真実なのであろう。
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