平成28年度の自動車国内生産は、936万0278台だったそうだ。平成2年には1,349万台だったが、その後は海外生産が伸びたため、そんな数字を聞くことはなくなった。それでも、我が国の経済界において自動車は基幹産業の地位を占めており、今年の春闘に自動車大手の労組はベア3,000円の強気の要求で臨んだ。(結果はトヨタで1,300円)本日は、そんな自動車産業の原点を紹介しよう。
岡山市丸の内二丁目に「国産自動車創生者 山羽虎夫(やまばとらお)翁」の像がある。岡山城の大手門跡の近くである。
我が国の産業史は、自動車のパイオニアとして、もっと山羽虎夫を顕彰してもよいのではないか。台座の裏側には、彼の業績を説明した銘板がはめ込まれていた。今は失われている。
国産自動車第一号が、岡山、三蟠間(六キロ)を走ったのは、明治三十七年の五月七日だった。その製作を担当した山羽虎夫、佐々木久吉、両氏の苦心もさることながら真の発注者たる森房造、楠健太郎、両氏の卓見も見落してはならないものであろう。
この像は昭和29年(1954)に建てられた。明治37年(1904)から50周年を記念したものである。
岡山市北区表町三丁目の千日前商店街に「山羽虎夫工場跡」がある。ここに山羽が経営する電気修理工場があった。技術者としての強い好奇心から、自動車の製作にチャレンジしたのである。
この工場で製作された国産自動車第一号は6km走った。とは言うものの、タイヤのトラブルで試運転のみにとどまり、実用化には至らなかった。
そこで、初の国産自動車は、明治40年(1907)に東京の吉田真太郎が製作した吉田式ガソリン自動車「タクリー号」だとする考え方もある。こちらは有栖川宮威仁(たけひと)親王の依頼により10台ほど生産され、欧米車と比較しても遜色のない出来だったという。
山羽虎夫は、自動車史に記録されるだけでなく、バイク史にも名を残している。国産初のオートバイを明治42年(1909)に完成させ、約30台製造販売したという。同じ年に大阪の島津楢蔵が製作した4サイクル400ccの「NS号」が国産初のオートバイだともいう。
山羽と同時期に様々な技術者がエンジンの研究をしていた。それは、電話機の発明でベルとエジソン、そしてグレイが火花を散らしたエピソードを思い出す。山羽の活躍した時代は、パイオニアたちの英雄時代であった。
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