日本三大怨霊とは、菅原道真、平将門に崇徳天皇を指す。このうち「憤死」と形容される壮絶な最期を迎えたのは、崇徳天皇である。その様子については「身は松山に音をのみぞなく」の冒頭で紹介した。本日は亡くなった直後から起きる怪異譚である。
坂出市西庄町に「野沢井」という泉があり、ここは「崇徳天皇御殯殮御遺跡」だという。何やら難しそうだが、八十場のところてんと言えば、知っている方も多かろう。この日、私もおいしくいただいた。
ここは「八十蘇場(弥蘇場)の清水」という冷泉で、「野沢井」はその古い呼称だという。崇徳天皇とどのような関係があるのだろうか。坂出ライオンズクラブの設置した説明板を読んでみよう。
八百年のむかし、保元の乱によって綾北に配流された崇徳上皇が南狩9年にして鼓岡行在所に崩ぜられるや御殯殮の地となり、御尊体をこの霊水にひたして損腐を防いだ聖地でもある。
殯殮(ひんれん)とは殯斂とも書き、死者を棺に納めたまましばらく安置することをいう。南狩とは天使が難を避けて逃れることをいい、配流を言い換えたものである。崇徳上皇が讃岐に入られたのが保元元年(1156)8月10日、そして、配流生活9年目に入ってすぐのころ、長寛二年(1164)8月26日に崩ぜられた。
亡くなったのは、今の9月半ばの残暑厳しい時期である。ご遺体の損壊を防ぐドライアイスがないので、この地の冷水が役立った。八十蘇場の清水は、まさに霊水なのである。
坂出市高屋町の高家神社は「血ノ宮」と呼ばれている。
境内に「御棺台石」がある。
血の宮とは穏やかではない。なぜそう呼ばれるのか。そして、棺を置いたという石とは…。神社の由緒を記した説明板を読んでみよう。
長寛二年崇徳天皇崩御あらせられ御棺を白峯に納め奉らんとて山路にかかる折天候険悪社前の石上に安置し奉りしに其の跡に御血聊か鈍染あり。依て郷人恐み天皇と御母后との二霊を相殿に斎奉れり。是血の宮とも申し奉る所以なり。
上皇の御遺体は白峰山頂で荼毘に付されることとなったが、途中天候が悪化したので高家神社の前の石の上に安置した。天候が回復したので出発しようと御棺を持ち上げてみると、石の上に血がにじんでいたというのだ。
坂出市青海町の青海神社は「煙の宮」と呼ばれている。
崇徳上皇の御陵のある白峰山のふもとに、この神社は位置している。なぜ煙の宮なのか。神社の由緒を記した説明板を読んでみよう。
同年九月十八日戌の刻玉躰を白峰山に荼毘し奉りし時当地(現社地)紫煙棚引其の中に尊号白く顕れ暫時にして消え失せたる跡に一霊玉残れり
タバコの煙のことを紫煙と表現するが、ここでは上皇のご遺体を焼いた煙である。煙はふつう立ち昇るものだが、白峰山から下降して青海神社のあたりに棚引いたという。火災の煙は火元から遠ざかると重くなって下降することがあるという。尊号や霊玉の出現は霊験としても、「紫雲棚引」は科学的に説明可能なのかもしれない。
三大怨霊は当時の為政者に様々な怪異を及ぼした。落雷でも病でも、自然現象だの運だとの考えればそれまでだが、自らにどこか引け目があれば、怨霊による「復讐」と考えてしまうのだ。荼毘に付された上皇は「讃岐院」と呼ばれていたが、皇族の死が相次いだことから治承元年(1177)になり、「崇徳院」とその徳を称える諡号に改められた。
だからと言って平和が訪れたわけでなく、世は源平の内乱へと突入していく。そんな中、混乱する社会を少し離れたところから見ていた一人の法師が、崇徳上皇の霊を慰めるため白峰山に登った。次回は西行法師の話をお届けしよう。
ありがとうございます。
投稿情報: tatsumishiri | 2017/07/18 15:37