私心を捨て公に尽くす、これは日本人の美徳である。武士道の理想は美しく死ぬことであり、それが特攻の殉国精神に引き継がれた。今日の日本あるは沖縄の空に散った英霊のおかげである。だからこそ、海に眠る御英霊の御霊安らかならん事を祈るのである。
そうなのだろう。亡くなった方の霊を慰めることは、人として当然の行為である。だが、私は思う。戦争では数えられぬほど方が亡くなった。銃後を守りながら空襲で亡くなった人、外地で戦いマラリアに倒れた兵士、処刑されたBC級戦犯、そして、特攻隊員。戦争さえなければ、そんな死に方はしなかったはずだ。死ぬことに何の差があるというのか。死者にランクを設けてはならない。特攻隊員だけが美しく死んだのではない。いや、美しい死などどこにもない。
だから、私は言う。特攻隊員をはじめ英霊の慰霊に努めるべきだ。同様に、戦争に巻き込まれたアジア諸国の人々も含め、すべての戦争犠牲者の御霊を等しく弔うべきだ。過ちは二度と繰り返さないとの誓いとともに。
三豊市詫間町香田に「詫間海軍航空隊跡」の石碑がある。前方は瀬戸内海だ。
石碑には「神風特別攻撃隊出撃の地」とも刻まれている。特攻隊の出撃基地としては知覧があまりにも有名だ。知覧特攻平和会館に展示されている特攻隊員の遺書は、涙なくして読むことができない。だからと言って、特攻による死を美化してはならないことは前述のとおりだ。
沖縄から遠く離れたこの地で何があったのか、事実を確認することから始めたい。詫間町教育委員会が平成12年に設置した説明板を読んでみよう。
昭和二十年二月十六日、全小型機による特攻訓練の実施が発令された。詫間空では、水上偵察機による神風特別攻撃隊琴平水心隊を編成した。同時期、茨城県北浦・鹿島両海軍航空隊で編成された神風特別攻撃隊魁隊が詫間空に進出、両隊は猛訓練の後、鹿児島県指宿を前進基地として沖縄周辺の艦船に体当たり攻撃を敢行した。指宿では先行した整備員が発動機調整・燃料補給・爆弾装着等の整備に心血を注いだ上、断腸の思いで出撃を見送ったという。四月二十八日以降四次にわたる出撃で二十五機が米軍艦船に突入し五十七名の若者が沖縄の空に散華した。
詫間空とは詫間海軍航空隊のこと。この地に基地が建設されることが発表されたのは昭和16年11月。航空隊の発足は18年6月のことである。水上機の訓練を担当した。だが戦況はいよいよ悪化、通常の飛行訓練ではなく特攻訓練を実施することとなる。そして、本来は偵察や船団護衛、対潜哨戒を任務とする水上機は、指宿海軍航空基地に移動して準備を整え、若者と共に敵艦に突入していった。
ある隊員は、特攻前日に水上機で自宅上空に飛来し、自宅の庭に信号筒を落とし、翼を振って飛び去ったという。信号筒には家族一人ひとりに宛てた遺書が入っていた。妹には「兄さんが晴れの体当りをしたと聞いても何もしんみりするんぢゃないよ。兄さんは笑って征くんだ」とあった。この死を理不尽と言わずして何と言おう。戦争は命だけでなく、人と人との絆をも無情に、そして、いとも簡単に断ち切ってしまう。
このような戦争に導いた政治家や軍人の責任は重い。東京裁判に批判があるのは承知しているが、戦争指導者は何らかの形で処断されねばならぬ。守るべき国民の多くに理不尽な死をもたらした責任は万死に値しよう。また「暴支膺懲」「鬼畜米英」などと戦争をあおった世論や新聞の罪も、もっと明らかにされねばならない。
ひるがえって今、我が国の指導者は戦争を回避する努力をしているのか。日本人というアイデンティティに固執する人々は、東アジア諸国との外交関係について、どのような世論を形成するのか。そして、不測の事態が生じた際に、なおも国際協調を基軸とした平和外交を貫けるのか。沸騰する世論は判断力を見失わないだろうか。
先の大戦のすべての犠牲者の慰霊に努める思いを、今こそ生かさねばならない。全国の学校で行われてきた平和教育の意義が今、試されようとしている。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。