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歴史の原動力がパトス的なものであるなら、頼山陽の漢詩はそれを喚起するモチーフであったといえよう。「下筑後河過菊池正観公戦処感而有作」では、南朝武将の忠節を熱く語り、天皇の復権に影響を与えた。本日は、勤皇の吟遊詩人、頼山陽ゆかりの地をレポートする。
竹原市本町一丁目に「頼山陽先生之像」がある。
「頼(らい)」という珍しい名字は、中国と関係があるわけではなく「頼兼(よりかね)屋」という屋号に由来する。染物屋を営んでいたようだ。頼山陽と竹原には、どのようなつながりがあるのだろうか。説明板を読んでみよう。
頼山陽(一七八〇年~一八三二年)
頼山陽は竹原を故郷とし、名は襄(のぼる)字は子成、幼名を久太郎(ひさたろう)と称し山陽は号である。安永九年十二月二十七日大阪(江戸堀)に生まれる。父に春水(弥太郎)母に梅颸(ばいし)(静子)。
山陽は文化文政の江戸時代文明の最盛期に活躍した儒者である。詩文は一世を風靡し歴史に残る代表的な「日本外史」「日本政記」の二つの大著によって明治維新の原動力となり日本の夜明けに多大の影響を与へ歴史家としても著名である。書も亦よくし画、煎茶、水石の趣味など秀逸の範囲は広くまた孝心篤かったことは、余りにも有名である。
頼家は山陽の祖父惟清(住所、現在の竹原市竹原町上市)の長男春水をはじめ春風、杏坪の三兄弟に亘って七人の優れた学者文人を世に輩出させた。
この座像は山陽生誕二百年を記念し山陽の玄孫(五代目)頼新(あらた)氏(京都市)所蔵の像を拡大し、日府展評議員彫刻家、南部祥雲氏によって製作されたもので昭和五十五年七月十九日に建立除幕が行なわれた。竹原人の心にはいつまでも頼山陽は生きている。山陽の功績を尊び有志が発起人となり多数の賛同者の協力を得て日本で最初の頼山陽像をここに建立したものである。
竹原頼山陽顕彰会
「竹原を故郷とし」とあるが、大坂生まれの広島育ちである。竹原は父祖の地と言える。全国各地の文人と交流があったが、主に京都を拠点として活動した。竹原には、山陽の祖父惟清、叔父春風、春風の孫篁渚それぞれの旧宅がある。山陽もしばしば竹原を訪れたようだ。
頼山陽・梨影(りえ)夫妻の顔ハメもある。実際に仲睦まじい夫婦だったようだ。山陽の死後、梨影は遺児の教育に尽くし、京都町奉行から表彰された。その遺児とは儒学者・頼支峰と勤皇志士・頼三樹三郎である。実は梨影は後妻で、先妻を淳という。淳との間にできた子は、長じて儒学者・頼聿庵(いつあん)となった。
頼家の子孫には、聿庵の系統の広島頼家、支峰の系統の京都頼家があり、本日紹介した山陽座像のモデルを提供した頼新氏は京都頼家の方である。竹原には春風の子孫の竹原頼家が続き、春風の弟の杏坪(きょうへい)の系統も広島で続いたと聞く。
竹原は、頼山陽というより頼家との関係が深いと言える。それでも竹原の人々が山陽先生を慕ってやまないのは、先生の詩にパトスが喚起されるからではないだろうか。
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