何事もなく過ぎていく毎日ほど幸せなものはない。しかし、緊急事態は突如発生する。元禄十四年(1701)3月14日、赤穂藩上屋敷に届いた知らせは、まさに青天の霹靂、家中の者は茫然自失となったことだろう。「赤穂藩主、江戸城中で刃傷」だというのだ。
東京都中央区明石町に「浅野内匠頭邸跡」がある。都旧跡に指定されている。
浅野内匠頭(たくみのかみ)といえば、刃傷事件を起こした赤穂藩主、浅野長矩(ながのり)のことだが、先々代藩主の長直も内匠頭という。この地は祖父長直、父長友、そして長矩、赤穂藩浅野家三代の上屋敷であった。中央区教育委員会の説明板を読んでみよう。
常陸笠間(茨城県笠間市)藩主浅野長直(一六一〇~七二)は、正保二年(一六四五)、播磨赤穂(兵庫県赤穂市)に領地替えとなり、五万三千五百石を領して内匠頭と称しました。子の長友の代に分与して五万石となります。
ここから北西の聖路加国際病院と河岸地を含む一帯八千九百余坪の地は、赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷があった所で、西南二面は築地川に面していました。
忠臣蔵で名高い浅野内匠頭長矩(一六六五~一七〇一)は、長友の子で、元禄十四年(一七〇一)、勅使の接待役に推されましたが、三月十四日、その指南役であった吉良義央を江戸城中で刃傷に及び、即日、切腹を命ぜられました。この江戸屋敷及び領地などは取り上げられ、赤穂藩主浅野家は断絶しました。
事件が起きたのは、14日午前11時ごろ。浅野内匠頭が殿中松の廊下で突如、吉良上野介に斬り付けた。内匠頭は取り押さえられ、上野介は傷を負ったが命に別状はなかった。五万三千石の大名が殿中で抜刀し、傷害事件を起こしたのである。厳しい処分が予想された。上屋敷にはどのように知らされたのだろうか。赤穂藩士・岡嶋八十右衛門常樹の記録「赤穂城引渡覚書」には、次のように記されている。赤穂市発行『忠臣蔵 第三巻』より
一 上屋敷へも御目付近藤平八様・天野伝四郎様・御歩行目付手嶋三右衛門殿・御小人目付衆御出、大学様御出候様ニと被仰則御出并又左衛門・勘左衛門被召出、今日内匠頭殿上野介殿ヲ御切付被成別条も無之御屋敷末々迄騒動不致火ノ許念ヲ入候様ニ急度可申付旨 上意候由被仰渡、則御屋敷ニ御詰被成御坐候
上屋敷へも目付の近藤平八様と天野伝四郎様、徒目付の手島三右衛門殿がお出でになり、殿の弟君である大学様も呼ばれていたのでお出でになりました。そして、家老の藤井又左衛門と用人の糟谷勘左衛門を呼び出し、「今日内匠頭殿が上野介殿をお斬りつけになったが別条はない。御屋敷の者は末々まで騒動することなく、火の元に念を入れるよう必ず申しつけよ、との上意である」と言われました。そういうわけで、お役目の方々は御屋敷で待機していらっしゃいます。
この一大事を国許へ知らせるべく、早水藤左衛門満堯と萱野三平重実が上屋敷から出立した。これが午後5時前のこと。赤穂への到着は19日午前6時ごろ。当時としては驚異的な速さであった。この時、早水らが知らせたのが上記の内容である。切腹については第二報で伝えられることとなる。
クライシス・マネジメントは現代企業には不可欠の能力だ。不確かな情報や憶測で大炎上となり、収拾がつくのに時間がかかるケースや、収拾したとしてもイメージダウンをこうむるケースが散見される。この点、幕府の指示と藩の対応は迅速かつ的確であったと言える。ただ、惜しまれるのは、即日切腹という処断が拙速だったことではなかろうか。
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