時代の変革期に組織のトップを務める者の心労はいかばかりであろう。あの幕末において、もっとも混乱したのは文久三年(1863)から元治元年(64)であった。尊王攘夷運動が最高潮に達し、下関戦争や薩英戦争などの対外戦争、天誅組の変、生野の変、天狗党の乱などのテロ、八月十八日の変や禁門の変などのクーデター、反対派への暗殺テロが相次いだ。
この多難な時期に14歳でトップの座に就き20歳でこの世を去った若者がいた。本日は激動期を駆け抜けた若き藩主をレポートする。
福山市北本庄二丁目に「阿部正方(あべまさかた)公小坂山墓所」がある。「従四位下行主計頭阿部朝臣正方墓」とある。主計頭(かずえのかみ)という官職は従五位上相当だが、正方はそれより上位の従四位下なので「行」を付けている。阿部朝臣という姓は古代阿部氏の系譜に連なることを示している。
阿部家は宝永七年(1710)以来、明治維新まで十代にわたって備後福山藩を治めた。老中を輩出する譜代で、とりわけ著名なのは第7代の阿部正弘公である。大河『西郷どん』では藤木直人が演じていた。実際にイケメンだったらしい。
その正弘公の甥が、本日紹介の正方公である。正弘の急死後、正弘の兄の子である正教が継いだが、早世により弟の正方が継ぐこととなった。文久元年(1861)のことである。その後の事績については、阿部家を顕彰している鷹の羽会による説明板を読んでみよう。
文久三年攘夷決行の命下る時建言してその先鋒となることを願い許されて京都警衛の任に当たり尊王の忠勤を励む。
元治元年禁門の変起き長州追討の朝命下り第一次征長の役の先鋒として公自ら福山藩兵を率い広島に出陣慶応二年第二次征長の役に石州口へ出陣す。この時病を得て同年七月二十三日帰城。
この戦役の最中慶応元年正月より藩運を堵して川口新涯沖に大新涯の築造を始め同三年六月に汐留め成り三二〇町歩余に及ぶ新田築造の大事業を完成農業振興に力を尽す同三年十一月二十二日病篤く福山城に卒去。年若干二十歳。
文久三年(1863)は、幕府がやる気もない攘夷を朝廷に約束させられ、代わりに長州藩が実行して、対外危機が一気に高まった年である。京都の警固は重要な任務であった。
元治元年(1864)と慶応二年(1866)の長州征伐では、譜代としての立場から、二度とも自ら兵を率いて出陣した。第二次では、陣中で病となり戦いにも敗れ、得るところなく福山に帰る。どうやら脚気を患ったようで、療養むなしく慶応三年(1867)11月22日に城中で亡くなった。
時代はまもなく王政復古の大号令、戊辰戦争と政権交代の動乱を迎える。この危急存亡のときに、佐幕の立場で行動した藩主が、子なくして亡くなったのである。福山藩は藩主の死を秘匿したまま恭順の意を示し、広島藩主家から養子を迎え、難局を切り抜けることとなる。手前の燈籠に「従五位阿部朝臣正桓」と刻まれているが、実にその人が後継者であった。
正方公の遺骸は長州藩に見つからぬよう城中に仮埋葬されたが、世が落ち着いた明治三年(1870)10月16日になって、現在地に正式に埋葬された。「隆徳院殿円誉覚融松巌大居士」と法名を持つものの、墓は時代の空気からか神式である。阿部家十代のうち唯一、地元に眠るお殿様であった。
殿は戦争に明け暮れていたわけではない。現在の新涯町や曙町のあたり、大新涯の干拓事業を起こしている。現在は住宅や商業施設が建ち並び都市化が進むいっぽう、クワイの生産がさかんで、広島県の日本一に貢献しているという。
私が正方公の墓所を訪れたのは1年半ほど前だから知らなかったが、この場所は、昨年11月17日に「阿部正方墓域」として市の史跡に指定されたそうだ。没後150年に当たる節目を記念する慶事となった。泉下の公も、さぞかし喜んでおられよう。
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