今年は明治維新150年、大山開山1300年、西国三十三所草創1300年、春日大社創建1250年、面白いものでは藤原道長望月の歌1000年、という記念の年だ。世界に目を向ければ、大唐建国1400年、高麗建国1100年、大明建国650年、三十年戦争勃発400年である。
ドイツを荒廃させた三十年戦争が始まった頃、日本では児島が陸続きになった。レベルが違うとお思いだろうが、そこに住む人々にとっては同じくらい記念すべき年なのだ。ドイツでは関連の特別展覧会が開催されるというし、児島では記念の酒が造られた。
倉敷市林の熊屋酒造が地元のNPO法人郷内村と協働して純米吟醸酒「郷内(ごうない)」を造った。酒米は地元産の「朝日」である。
この地域は、かつて「児島郡郷内村」という自治体で、今も郷内中学校など学校名に地名が残っている。新熊野と呼ばれた古くからの信仰の地で、承久の乱に敗れた後鳥羽上皇の皇子、覚仁法親王と頼仁親王がこの地で過ごしている。
児島半島は今、それほど大きな半島には見えない。有名な児島湾の干拓が行われる以前は、もっと大きな半島であり、さらにさかのぼると「児島」という島だった。往時の島の形はネット地図の航空写真で見ると分かる。本州との間には藤戸海峡があり、ここをはさんでの藤戸の戦いは『平家物語』の名場面である。
その児島が本州とつながったのが400年前だという。1618年といえばドイツでは三十年戦争だが、日本では元和四年、徳川家康が亡くなった翌々年のことである。明治30年代半ばに岡山県が刊行した『備中誌』窪屋郡巻之壹に次のような記述がある。
元和四年新開発地名
倉敷新田 笹沖 福井 四十瀬 伯楽市 沖 渋江 安江 八王子 水江 加須山
備中松山藩主池田長幸が進めた干拓によって陸地化した地名が挙げられている。おおよそ倉敷市酒津から同市浦田の間に位置している。児島半島は西端から陸続きになったのだ。今や昔の風景など想像できないくらいに都市化している。
「世界は神が造りたもうたが、オランダはオランダ人が造った」とオランダ人は自慢する。ならば我々はこう言おう。島根半島は神が引き寄せたが、児島半島は殿様が陸続きにしたのである。(解説:国引き神話と藩営干拓のことを言っている。)
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