買いそびれたが、「官兵衛の水攻め弁当」という駅弁が、平成26年に大河『軍師官兵衛』放映にちなんで限定発売されていた。鯛めしを水攻めよろしく出汁に浸して食す、という優れものだったという。
その高松城水攻めで、自らの命と引き換えに城兵を救った城主、清水宗治を演じたのは宇梶剛士だった。責めを一身に負うことのできる大人物に相応しい俳優だ。本日は「武士の鑑」と称えられた宗治ゆかりの備中高松城を訪ねたのでレポートする。
岡山市北区高松に「清水宗治城跡碑」がある。清水宗治の顕彰碑である。
この碑に価値があるのは、戦国ブームや観光客目当てではなく、武士の気風が色濃く残る明治九年(1876)に、宗治の主家である毛利家関係の人々によって建てられているからだ。正面の「清水宗治城跡」の書は、従三位毛利元徳、当時の毛利家当主である。大河『花燃ゆ』では、三浦貴大が演じていた。
裏面の碑文は、字面を追うだけでも苦労するが、とりあえず書き写してみよう。
高松之役豊臣氏衆号十万君将数千兵拠弾丸城当之不啻山岳之圧卵百
万攻之不克百計招之不降既而引水灌之環城為湖幾没矣及和議興身死
満豊臣氏之志以済一城之命成二国之好其処死也従容愉適歌且舞如未
嘗知死者優矣哉清水君之為将也雖古詩書之敦乎無以尚焉君就死舟中
時衆皆欲従之君喩以大義不允唯監軍末近左衛門尉信賀君庶兄月清及
家人難波伝兵衛主履七郎次郎月清主履余十郎与死実天正十年六月四
日也高市佑函首斂屍従容畢事臨穴自到白井余三右衛門尉治嘉先死試
自屠之不難属城帥林三郎左衛門尉重真守冠山城先高松而没死之皆百
夫之雄也賛曰君降耶山陽列城瓦解君不死耶一城生霊魚蟹鳥乎死也軽
于鴻毛重乎泰山矣桓桓軍容儼然如在
右清水宗治画像叙賛也撰文者周南山県孝孺也今鐫之碑陰者以代記
也建碑者宗治之裔清水清太郎也賛成之者伝兵衛之裔難波覃菴也何
為而建之恐歴年之久城址之或帰于湮滅也因記其事併書之者周南之
裔従四位教部大輔宍戸璣也
思い切って意訳してみよう。
備中高松での戦いでは、十万という羽柴秀吉の軍勢が押し寄せ、清水宗治は数千の兵を率いて狭い城に立て籠もり戦った。大きな山が卵をつぶすようなものだが、大軍で攻めても勝てず、計略をめぐらしても降伏させることができなかった。そこで、川から引いた水を注ぎこんで城の周囲を湖としたため、城はほとんど没してしまった。ついに和議となって、秀吉勢の意向により、宗治が切腹することで城中の兵を助命することとし、織田毛利の和平を成立させた。その死にざまは、ゆったりと落ち着いて楽しいかのように歌い舞い、死を知らない者のように優美だった。宗治の武者振りは、古くから詩に念入りに記されているというが、これに付け加えることはない。宗治が舟で切腹する時、周囲の者が殉死しようとしたが、宗治は人としての道を説いてやめさせた。ただ、監察役の末近信賀(せちかのぶよし)、宗治の庶兄月清(げっせい)入道、家人の難波伝兵衛はそれぞれに、宗治の家来の七郎次郎と月清の家来の余十郎は共に死んだ。実に天正十年六月四日のことである。介錯をした高市佑(こういちのすけ)は首を桶に納め遺体を穴に葬り、従容として自刃し自らも穴に倒れた。白井治嘉(しらいはるよし)は宗治に先立ち切腹の難しくないことを試して死んだ。属城の冠山城は林重真(はやししげざね)が守っていたが、高松城よりも先に陥落して重真も死んだ。みな武士の中の武士である。たたえて言おう。あなたが降伏しておれば、山陽道の守りは瓦解していたであろう。あなたの死がなかったなら、城中の生きとし生けるものはみな死んでいただろう。まさに死は鴻毛より軽く泰山より重い。あなたと共に亡くなった者らは、武勇に優れたさまで近寄りがたいほど堂々としている。
これは清水宗治の画像の賛である。撰文は藩儒の山県周南(やまがたしゅうなん)であり、このことを碑に刻んで記録しておく。碑を建てたのは宗治の後裔清水親春(しみずちかはる)で、これに賛成したのは伝兵衛の後裔難波覃庵(なんばたんあん)である。何のために建てたのか。長い年月を経て城跡が跡形もなく消えてしまうことを恐れるからだ。これを書いたのは周南の後裔で教部大輔の宍戸璣(ししどたまき)である。
おそらく長州藩には宗治及び殉死した八将を描いた画幅があり、彼らを称える「賛」が記されていたのだろう。賛の撰文は山県周南という荻生徂徠の門人で、藩校明倫館の創設に尽力した儒者である。宗治と八将の自刃を語り、その死が主家を救ったことを称えている。八将とは末近信賀、月清入道、難波伝兵衛、七郎次郎、余十郎、高市佑、白井治嘉、林重真である。
では、宗治と八将ゆかりの地を巡ることとしよう。
岡山市北区高松に「清水宗治公自刃之阯」と刻まれた碑がある。隣には、清水宗治とこの戦いで命を落としたすべての者の冥福を祈る供養塔がある。「高松院殿清鏡宗心大居士」と宗治の法名が刻まれている。
このあたりに浮かべた舟の上で、宗治は謡曲「誓願寺」を舞い、見事に自刃した。辞世は次のとおり。
浮き世をば今こそ渡れ武士の 名を高松の 苔に残して
介錯したのは、高市佑(こういちのすけ)とも国府市正(こういちのかみ)とも伝えられている。
岡山市北区立田の石井山に「清水宗治首塚跡」と刻まれた石碑がある。
山の中腹に首塚があったのは不思議ではない。すぐ近くの平坦地にあった持宝院に秀吉の本陣が置かれており、そこで首実検に供されたからだ。首塚は明治42年2月に高松城趾に移転したという。
岡山市北区高松の備中高松城本丸跡に「従四位清水長左衛門尉宗治公首塚」がある。
従四位は大正13年に贈られた。毎年6月第一日曜日には、首塚の前で「宗治祭」という供養祭が行われている。
岡山市北区高松に「胴塚」がある。
首と胴が別々に葬られることはよくある。本ブログでも平将門や近藤勇の胴塚を紹介した。清水宗治の胴塚には、どのような由来があるのだろうか。説明板を読んでみよう。
時に天正十年(一五八二年)六月四日、自決した高松城主、清水長左エ門宗治公の首級なき胴体遺体は舟上のまゝ本丸に帰って来た。
迎える家臣、身内の者共、押さえ切れぬ涙に感極まって、一同の嗚咽がおこった。やがて回向の声に包まれ、池の下丸、この地に手厚く葬られた。その墓穴に臨んだ公の介錯人国府市佑は己が刀で己が首を切り、そのまゝ落ちこんで自刃し亡き公の後を追った。
国府市佑(高市佑)が自刃したのが、この場所である。岡山県古代吉備文化財センターは、国道180号総社バイパス建設に伴う調査で、国府市正の居館跡(総社市総社字北国府)を発掘し、刀装具の目貫を発見している。
岡山市北区高松に「ごうやぶ(郷やぶ)」がある。
ここは、宗治の僕七郎二郎(七郎次郎)と月清の馬の口取與十郎(余十郎)とが、刺し違えて殉死した場所と伝えられている。
岡山市北区立田に「池上孫兵衛尉の墓」がある。
宗治の妹の婿とのことだ。宗治を支えた地侍なのだろう。宗治を多くの人が慕い、その死を惜しんだ。その人柄を伝える宗治自筆の書状が、子孫が住んだ山口県光市に伝えられている。天正十年三月晦日、人質として三原にいた息子の源三郎(景治)に宛てたものである。
源三郎殿
兵狼指下候、羽柴事来二日罷下由候、実儀自是可申候、若相延候者軈而替事可指下候、手習心懸肝要候、恐々謹言、
三月晦日 長左宗治(花押)
兵糧を送る。羽柴秀吉が来る二日に下ってくるそうだ。その様子はあらためて知らせる。もし延びるようなら再度兵糧を送る。手習いに心がけるように。
今の子なら口うるさく思えるような「勉強しろ」の言葉も、このあとの運命を考えれば、胸が締め付けられる。源三郎は親と同じく毛利家に忠義を尽くし、幕末には子孫が勤王派として維新に貢献した。その功績が認められ、清水家は男爵に叙せられることとなった。毛利家と清水家の紐帯は、三百年を経ても変わることがなかった。
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